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クソという形容はオットーが特に好んだ表現

こんなに切ない映画があっただろうか。ぼくは映画で泣くよりもYouTubeのオリジナルコンテンツで泣くことの方が圧倒的に多いが、といいますか映画で泣くことがまずないんだがぼくが泣くのは切ないことに対してだということがman called otto(オットーという男)を見てわかった。

そしてこれはオットーとソニア(故)に対する救いの話でもあったはずだ。恐ろしいほどにこの映画にはテーマとして死がつきまとう。しかしながらここまで底抜けた明るさで終わり、しかしかながら死というクソ重い、避けられない、そして生き物であるなら真摯に尊重し向き合わねばならないテーマと確実に適切に向き合えている映画だった。

最後の5分とか凄まじい切なさだと思う。でも言ったように底抜けた明るさだ。どういうことなのだろう。そして未読の人にとって気をつけるべきなのはエンディングが流れたら映画を消せというアラートが見たメディアによっては出てくるだろうが、エンディングは見たほうがいいということです。

この映画の不思議にして最大の特徴は色々と隠されていることだ。だからこそ、すでにあった事実に基づいて途中までは設計されている、不可解なオットーを含めた人々の行動には原則があったということがわかる。オットーもマリソルも、トミーも隣の家のアフリカンアメリカン夫婦も最初の印象がクソ違う。クソという形容はオットーが特に好んだ表現なのでぼくは準じているだけだ。

つまり最初は全員クソだった。まともなのはジミーとソーニャだけだが、ソーニャはすでにいない人で、ジミーは一見やばそうな奴に見えてしまう。このジミーが凄まじく良い立場にある。

ジミーが底抜けに明るい。猫アレルギーだということを隠して(忘れてただけだっけ?)オットーの猫を代わりに飼ってあげる、アフリカンアメリカン夫婦のピンチをオットーに話す、マルコムと一緒にオットーの生きる理由だった神経質な町廻りを代行し、オットーがいなくなってからも続ける……と舞台に色をつけること止めどない。

主役はオットーとマリソルなんだろうが、ジミーがいなければ成り立たない。なんなら、いくつかのオットーの役割(マリソルの子らの面倒を見たりトミーを病院に送るだの)はジミーだってできただろうに、オットーの物語だからおいしい役回りはオットーに譲る。ジミーは俺達の光だ。

そしてトムハンだが……もはや世界の常識としてトムハンが演じる対象物とはとにかく聡明できちんとした人であることが前提になってるから、こんなしょうもないことばっかしてるオットーがまともな人になるんだろうな、的情緒は観客の誰もが思うだろう。こういう構造だけはどうにもできない。悲しいね

その実オットーはうまいこと軍に入らずに生きれ、凄まじいまでの機械への理解を示し、周りのみんなの道具がぶっ壊れたら次々に直してあげる。自転車から皿洗い機まで枚挙に暇がない。そしてマルコム、彼女彼はトランスジェンダーらしかったが、これがガチできちんとしてる……といいますか狙ってそうしてんの?かどうかわからんのだけど、元の性別がどっちで、じゃあ今どっちになりたいのかがマジでわからない。それをしてうまいことできてると言っている。つまりこの映画は安易なLGBTQ配慮とかとも違う、よくわからんものはよくわからんままそっとしといてやる、その存在を尊重するという生き様を見せているのだろう。

そして救いの話と言ったが、ソーニャはずっとオットーが自分の後を追わないように世界中へはたらきかけたのだろうか。死の間際に

ネッコがオットーの元に来たのはソニアの生まれ変わりといいますか野良の猫にソニアの上位意識が混ざり込んだと見ることができるのかどうかと思ったが、マリソルの引っ越しからトミーの大怪我、猟銃をぶっ放そうと思ったら変な音で失敗した、ソニアの蒔いた種であるマルコムを助け、助け返される、電車に飛び込もうとして人助けになって超絶有名人になってしまい、まるで軍の時代の人間とは思えないほどSNSのちからを味方につけて外敵を破壊する。最後にアフリカンアメリカンの完全痴呆になったとされる夫が泣いているのも細かい。この映画で泣けなかったら絵本作家になるとよい。どんな残酷な話でも書ける人になるからだ。

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中村風景
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