尊厳死映画が見れるのは心に余裕がある証拠ではないのか
ティルダ・スウィントンといえばぼくのなかでコンスタンティンの無性別的なクソ天使の役だった。ヘッダ画像をお借りしてます。
それがなんと重い病気の末期に達してしまった人を演じ、ベネチア国際どうたらうんたらでベストだったらしいから驚いた。コンスタンティンとはぼくのなかで今年の映画だった。
多分2006ぐらいの映画だと思うので、ぼくのティルダ意識は20年遅れていることになる。あのクソ生意気でめちゃくちゃ情けない返り討ちを受ける哀れな天使は20年たてばその面影をなくすのだ。
ティルダ・スウィントンがでた映画は尊厳死を扱ったものらしかった。ホアキン・フェニックスやガガが共演したり名前でとにかくやってやれ的な映画が軒並みノミネートされた……というよりはそのあたりがベストになるんねんなという下馬評だったらしいが、尊厳死という実際的なテーマを取り扱ったものに与えられた。
それは別に良いことだと思う。ただ、尊厳死の映画を見れる人というのはものすげえ人生に余裕がある人ではないかと思う。身近に尊厳死を選ぶべきなのではないかというような相手がいてしまった場合、とてもそんな映画見たいと思えないだろう。あるいは、こんな残酷なこと言いたくないがすべてが終わってからじゃないと見れないんじゃないか。ぼくは酒はやらないが、深酒とかしながらじゃないと見れないレベルであり、見た後に深い後悔をしそうだと思える。
つまりそのような映画は確かに作り物でありながら、見る側の生活に大きな影響を与えかねない時点で、見る側にはヒューマンドラマではなくドキュメンタリを強要することになるわけだ。
このような容れ子構造……?といいますか「ものそれ自体はそのままの意味があるが、見た側はとてもそんなことじゃなくなるよ」的な行動喚起的意味合いを持っている映画は確かに訳知り顔の審査員とかが好きそうであると思った。オークションで落札されたお美しい絵が、落札者が決まった瞬間にこなごなに破壊され、その儚さこそ芸である、シュレッダー機まで含めて完成だ、みたいな訳知り顔の人々である。
映画を自分ごとにしないといけなくなったら見る側の自由度がなんらか減るように感じるが、その答えはでない。自分ごとにしたほうがいい場合もある気がするし、絶対にそうではないときもあるからですね。ぼくは事前情報を集めて見たりは絶対にしないので、そのような事故にはいくらでも合う気がするし、たまたまこのティルダの映画はそのような作りにして正しかったのだろうけど。