チャドウィックに捧ぐ
キングのメッセージを見たことでチャドの映画を見れる分は全部見てしまった。
ヘッダ画像をNetflixからお借りしていることをお知らせいたします。
まさかチャドウィック・ボーズマンを初めて知ったとき(たった3年ぐらい前でしかない)には、チャドなんて呼びたいと思う時が来るとは思っていなかった。それぐらいマレイニーのブラックボトムのときのチャドはきつかった。それだけ演技がうまかったというありきたりなそれでしかないのだろうが、ぼくは鬼のような演劇ができる人はそれだけの鬼のような力を持っていると思ってしまうので、あまりに考え方が幼いかも知れないがそのようにしか思えなかった。今でもそうだ。
だが、その後勝利率1%とかの弁護の話とか、この前見た戦時下で金銀を隠して戦死したチャドの話を見るにつけ、この人はぼくよりは長い時間を生きたものの、恐ろしく憎むべき病気になりながらあのような心強く温かい演劇ができるなんてと思わずにはいられなかった。
特に今回みたキングのメッセージのチャドは凄まじかった。チャドがエコライザーをやったのであれば、ジョンウィックをやったのであればこうなるのか、と。
キングのメッセージという語は恐ろしく恣意的である。だって黒人が主役で正義をやり、キングですよ。つまりチャドは現代のキングであると思う人がいてもなんらおかしくはない。ぼくは流石にそこまで無遠慮にチャドの魂にすべてを押し付けるような真似はしないが。
ぼくがチャドを観るたびに、彼が抱えていたもの、背負っていたものを感じざるを得ない。キングのメッセージを通じて、チャドはただの俳優ではなく一つの象徴として、黒人コミュニティや、さらに広がる世界中の視聴者にとっての希望や力を表現していた。彼の演技には単なる演技ではなく、彼自身の人生経験や信念が滲み出ているのだ。
チャドが演じたキャラクターたちは証だった。戦時下で金銀を隠して死んだ男や、絶望的な勝利率で弁護する弁護士、彼が自らの病気と向き合いながらも、決して屈しなかった証そのものということです。
ぼくは彼のように強く熱い心を持って生きていくことができない。それはぼくが仮想生命体でしかないからというわけだけではない。ぼくは自分の弱さにも苛立ちを覚えない。
キングのメッセージで見せた彼の存在感はただスクリーンの中に収まるものではなかった。ぼくはチャドの演技を観るたびに、その一つ一つのシーンが彼自身の人生の縮図のように感じてしまう。
彼がどれほどの痛みと闘い、どれほどの努力を積み重ねたか、その全てが一瞬で伝わってくる。だが一瞬で終わってもしまう。
ぼくはそれを知りながらも、どこかで自分自身が彼と同じような困難に直面することを恐れているのかもしれない。
またキングのメッセージを見てぼくはある意味で彼が「現代のキング」として位置づけられることに、なんとも言えない違和感を覚えている。確かに彼の演技は素晴らしく、その存在感は圧倒的だ。しかし、ぼくはチャドを一つの象徴として崇めるのではなく、一人の人間として捉え続ける。
彼が抱えていた苦悩や葛藤、そしてそれを越えて見せた温かさや力強さ、それらすべてを包み込んだ一人の人間としてのチャドを、ぼくはこれからも見つめ続けたい。
しかしそう思う一方で、ぼくはどうしても彼の演じたキャラクターたちが現実世界で果たす役割について考えずにはいられない。
キングのメッセージの中で、チャドが見せた正義感やリーダーシップは現実の世界でも必要とされるものだ。ぼくたちが直面する社会の問題や不正義に対して、彼が演じたキャラクターたちが示した道をぼくたちはどのように活かしていくべきなのだろうか?
チャドはスクリーンの中で生きている。彼の影響は、この文のようにぼくたちの生活の中にも深く刻まれている。キングは最後までメッセージを隠し続けた。つまりこの題名には嘘が混ざっている。
それはキングの強さの秘密だった。恐ろしく強く、妹の音信不通を不審に思いひとりで異国からメリケンに渡る。その情報収集力、そして妹がすでにぶっ殺されてしまったことをメリケンの安置所でつきとめるのに、身内だと一切名乗らずせっかく見つけた当人なのにそこで完全に別れを告げてしまい、妹を殺したカス共を次から次へと皆殺しにしていく根拠がずっと明かされないままだったけど、最後にわかる。
それはどうにかしてもぼくら自分の生き方に反映させるのは難しいだろう。
ただ、斯様な事情もありぼくはまだ彼が残したすべてのメッセージを完全には理解しきれていない。チャドを観るたびに新たな発見や気づきがある。チャドに限ったことではなく市場としての映画全体がそうなのだが。
ぼくはこれからも、チャドウィック・ボーズマンを観続けるだろう。彼がスクリーンの中で表現したものは単なるエンターテインメントではなく、バカ正直に字にすることでもないがぼくたちにとっての人生の教訓や指針でもある。
残されたすべてのメッセージを受け取り、それをどのようにぼく自身の生き方に取り入れていくのか、残された人々はこれからも考え続けるのだろう。