月島と鯉登は軍人としていさぎよく腹を切れ
ヘッダ画像をお借りしています。
ゴールデンカムイの感想です。ぼくは殆ど不満は持っていないに等しいです。大いに内容のばれを含んでいる。
二項対立
最終的に完全な二項対立となりました。主役たちと鶴見です。
しかしながら物語漫画の常套手段とも言える過去の掘り下げが主要キャラクターたちには必ずあり、これでもかというぐらいどちらにも肩入れできるような書かれ方をする。
それにより、近現代の漫画では敵側に愛着を持ちがちなエンドユーザが増えましたよねという話を以前しました。
同情の余地ケース1:鶴見
鶴見もそうです。前回も触れた尾形もそう。
鶴見の過去に同情する余地があり、これは主役たちの身内により家族が殺されたというものだった。つまり長谷川だったころの処遇までは同情できるが、それ以降はどうでもいい。ただの犯罪者でしかない。
また尾形が完全に死んだことにより、鶴見の死も確定的となり月島と鯉登は確実に生き残り、腐った軍部を立て直す「敵側の希望」として永らえることが示唆されました。
小判鮫以下の月島と鯉登
もちろん月島と鯉登についても、過去の掘り下げが大いにあった。当初鯉登は鶴見の小判鮫以下の存在であり、鶴見の代わりに機動的暴力を提示するロボットのような舞台装置でしかありませんでした。ぼくはその印象は今でもそんな変わってはいません。
また月島はその豊富な軍属経験から、鯉登をコケにしつつも鯉登の部下となることで鶴見に付き従い心酔しているアピールをし、その行為自体を目的とするようになった。
本来、鶴見のクーデター的な目的を遂げるために生きることを目的とすべきですが、「鶴見の言うことは絶対である」という、本来は手段でしかない枷のような生き方自体を目的としている。それにより自分が生きる意味があると思っているので、軽く尾形との対比があります。
尾形
尾形は自分の善意に嘘をつき―――――嘘をつくといいますか、
・自分の中の善意を認めつつも、
・それは人間であれば少なからず生じてしまうことなので、
・血も涙もない生き方をしてやり、
・またそのやり方で一定の成功を収めることで
・「善意なんかあってもなくても関係ねえんだよ」みたいな究極の自分騙しみたいな、なんとも破綻した証明がしたいだけ
ですが―――――善意に包まれながらまるで救われるかのように死んでいき、それまでの悪からくる行為がまるで帳消しにでもされたようになりましたが、月島は最後まで自分の中身がまるでさなぎ状態の虫のように定まっていなかった。
月島が救われるな
しかしながら仲間を救うというそれだけのために、それまで月島と同様鶴見に心酔していただけのただのガキだったが迷いが消えて土方歳三すら葬れるようになってしまった鯉登により、月島はゴミのように見ていたその存在から渇望を見出されながら生きていくのだろうという示唆が生まれて終わった。つまり月島と鯉登は物語の大きな運命のようなものに(もしそんなものがあるのなら)許されてしまったのでした。
よりによって自分以下だと思っていた鯉登が自分の人生の道標となる月島、という構図はそういう業界から見れば非常に耽美でありロマンティックに映ることでしょう。普通にヒューマンドラマとして成立しているのでしょう。
完結するまでは、鯉登は月島より救いがない未来しかないだろうみたいな読後感すらあった。
冒頭で不満はないと述べました。
軍部は確実に改革が必要であり、その不安を残したままでは読者の心にももやがかかったままの読後感となってしまうため(アシリパが一生かけて交渉し、その後さまざまなことが上手く行ったという描写ひとつあればその心配は少なくとも主役サイドに対しては無用のものであったと察することは可能ではありますが)、陸軍をなんとかするための舞台装置としてこの二人が残された、生かされたことは仕方がないと思える。何らかの軍人が生き残らねば、左記の可能性は潰えてしまうため。
同情する余地:ケース2
だが、よりによってこいつらを生かすかという思いが表題に現れた。杉本をのらぼうと呼んだ菊田や有古に担って欲しかった。こいつらは菊田と有古を殺した。土方も殺した。それだけじゃない大きな罪を持っており、断罪されなければならない。
鯉登に同情する余地は幼少期の誘拐の時点で、月島に同情する余地は親殺しが終わった時点でなくなった。それ以降はそれ以降である。