2-07-4【ひとりの人間の苦悩の終わりが、続く者へ託すことに繋がる奉納文化】
前回は信頼関係の構築プロセスを、『縁起×PDCAサイクル』にして論じた。
①Pドリブン『L→中空←R』『信じ』
②Dドリブン『L←中空→R』 『分かち』
③Cドリブン『L↓中空↓R』『受け入れ』
④Aドリブン『L 中空 R』『示し合う』
を繰り返し、『共感』を掴んで、その繋がる線に『頼る』ことで『L↑中空↑R』の上昇気流へ一気に乗り『信頼関係』になる。それは自己の変化と同じでもある・・・と論じた。では次は、その線を掴むことに集中するとは何か?その更に先に何が生ずるのか?を論ずる。
■寄り添う姿勢の文化性■
私は拒絶感だの偏見だの、好き嫌いだの見下しだの、ネガティブな観念を「無くせ」と言わない。去来した観念を即座に捨て、観念に囚われず行動へ移せる姿勢を身につけろと申している。道徳は論じない。倫理を論じる。子供は「ダメ」と叱るより「こうしなさい」と導くことで自ら学ぶ。優れた行為を欲し求めるだけで、あらゆる問題は解決へ向かう。
では縁起の上手いやり方をどう訓練すればいいか?・・・無意識に自然なふるまいが、優れたふるまいが出来るように、日常的に姿勢を正し、優れた行為を欲し模索することとなる。そいつが人と寄り添う為の道具になる。例えば趣味。好きなことにのめり込むと今の行為に集中する。そこで文化場に宿る優れた型を次々と身につける。縁起は異質な個と個を縁で結ぶ作業であり、それは『過去⇄現在⇄未来』の今に生ずる。楽しむ。遊ぶ。言語行動を非言語行動へ変換する。優れた型を身体に叩き込む。
自由にふるまえる『因果律:文化や経済』場でコツを掴んでいくのだ。これらが余計な価値判断の介入を阻止させ、人間関係の線を繋ぎせしめる。客体の反応を磨く方が他者に寄り添えるし、個としての自分も保たれる。『美意識』も『インテグリティ(真摯な姿勢)』もこれで磨かれる。
私がこの章で論じてきた諸々は、既に文化場で体現されている。将棋もラップも禅問答も、ビートボックスバトルも俳句バトルも、SNSで流行るお絵かきチャレンジも、みな高度な『プラグマティズム』だ。言語記号を文脈へ『脱構築』して『構造主義』な再構築を『非言語コミュニケーション』としてやり、異なる『実存』の『二元的対立の実践』を『縁起』を目指して展開する。『信頼関係の構築プロセス』でもあり、文化にはそれをせしめる『型(上手い線の繋ぎっぷり)』がいくらでも並んでいて、しかもこの文化性は『ポストモダン(不確実性・多様性)』の価値観を尊重する。20世紀後半から現在へ伸びる哲学諸々が既に体現されている。
文化場における共同体の人間関係って、常に『個』を保つ為に工夫されている。過去や未来が今のあなたを否定しない。自分を否定するのは自分になるのだ。それが自分を変え、他者と繋がる線を導き出すのである。そしてこれを成す為の方法論も、メソッドも、作法も型も既にわんさとある。どの道具を選ぶか?も自分で決める。自分に似合った道を選べる。
縁起は「私を守り、世界を変える」となる状態を問題とする。固定観念の絶対化。『個』の中身を守りに入る状態が最大のネックだ。過去の自分を守り、未来の理想を守り、今の自分を否定するのも似た状態。ポーカーやれば今に集中するくせに、営業やると不必要に自分を守り「お前が変われ」と決め込む者っている。今を観なくなるのだ。今そこに居る他者を観なくなるのだ。自分で分かっていてもそうなる事がある。文化場では出来てたでしょ?・・・我々は因果律へ身を委ねていい場所を離れると、途端に『過去⇄現在⇄未来』がごちゃ混ぜになるのだ。ではどうしたら今に着地するのか?
■個を保つから寄り添える■
心の問題は前の章!組織の問題は次の章!ココは姿勢の問題の章!・・・仏教では『身口意』と申し、「行動・口癖・思考」の整合性を心掛けた生活が修行の基本姿勢だと説く。『客体律⇄《意識現象》⇄主体律』の一致を意識させるメソッドだ。しかも「これを目標に生きろ」じゃなく「今そうなれ」と、現在地点に位置づける。有り体に言えば「今を生きる」だ。思考が行動を否定したり、やるべき行為が心を圧迫した瞬間に身口意を心掛けて今に集中する。
『禅』の修行はコレのみだ。即ち主客一致したベクトル状態を維持するのが優先で、地に足をつける為なら行為を絞り、余計な思考も捨てる具合となる。これを継続すれば事が成ると申し、姿勢の哲学のみで成功哲学も説く。
「自分を示す」は後でやればいいのだ。例えば能力の低い者と仕事をしてイライラすれば、相手のペースに寄り添って自分の能力を分割し、共に歩むことを優先する具合。「お前が変われ」は後で中空テーブルに示せばいい。『PDCA』の『C→A』の段で軌道修正すればいい。これが縁起のプロセスへも突入せしめるわけで、仏教の根幹とも整合する。要するに批判も先ず相手と寄り添うことから、人間関係として成立するのである。故に「叩いてから寄り添う」と逆になるアレらは洗脳へと接近する。
『寄り添う』は、単純に強者が弱者に合わせる思想でもその逆でもない。優秀な人材はマルチコアCPUのように、「ひとりで何人同時に縁起できるか?」とサステナブルに姿勢制御し続けること、あるいはより深く相手に集中するという意味になる。上手い者は更にコーチングもそこでやり、分割したエネルギーの残りで相手の力を引き出すこともやる。縁起の過程で捨てた自我は、別の場面で活きるのだ。捨てた分だけ可能性がひろがるとすら言える。
すべては「自己の姿勢を崩さぬ程度にやる」なのだ。「我を捨てる」という美学も、捨てる我が十分にそこに在り、自己認識されていることが大切な前提となる。自分の姿勢を崩さぬ程度に、個を保って我を捨てるのである。主体律で大事なのは『自尊心』となる。この後論ずるが『自己承認』である。手前で手前を信じるから、自分で自分を変えられる。
もし自己を全否定していたり、又は自己肯定が無理な自己正当化になっていれば、「自分を変えず、他者や世界の側を変えよう」となって上手くない。単純に「我に蓋をし観てないだけ」になる。それだと「相手も観ない」になってしまう。「私に合わせてお前が変われ」になれば縁起も不可能。だから「自分の主体律をトータルに承認し、客体で私とあなたは違う」と認識することが分母なのだ。
■実存は本質に先立つ■
先に論じた色々とこだわりを捨てフラットに『AL 中空 AR』になる段。冷静に相手と認識を「示し合う」の段。ココで『個』という『枠』『殻』を保っているか?が『姿勢の哲学』なのである。示し合って、互いに同じイメージを浮かべる瞬間『共感』が去来するのは、全身全霊で相手を信じる意味での『同調』でも『迎合』でもない。縁起は『融合』ではない。フュージョンしない。個と個の間の中空テーブルを互いに観て線を繋ぐ作業である。何の為に距離を置いた?世間には「理解しないであげる」という優しさもある。繋がれるタグだけ繋げていく時、私とあなたは融合しないのである。
だからその共感される線に「頼る」ところに『AL↑中空↑AR』の道が示され『信頼関係』が生じるのだ。個を保った者同士が線で繋がるから、信じ合って張り詰めていた繋がりが、寄り添い合って緩い糸の繋がりになっていく。「糸を半分にする」と書いて『絆』と呼ぶ。繋がりを確認し合って『愛』と呼ぶ。異なる者同士が緩く繋がるから、向き合わず同じ方向を観るから、人は助け合いも出来るのだ。弱い紐帯の強み(-人-)(-人-)。
自尊心とはサークルだ。枠だ。殻だ。ホームだ。型だ。大事なのは中身じゃない。中身を一旦カラッポにした『空』という殻と殻を寄り添わす側が先で、中身を示し合う側は後である。枠と枠を整合せしめるのである。『システム工学』もコレ。異質な枠組み同士を線で繋ぎ整合せしめるのであり、本質と本質を論理的に繋ぐことは目的化しない。
先に論じた『主体マップ』もシステム思考である。人間関係の上手い者は、我を捨てる時に中身も捨てて、後で他者が中身を埋めてくれるのだ信じて頼る。「人間の器」と呼ばれるものだ。これが究極だ。もし何かを目指して生きたいなら、コレのみを目指してコツを掴んでいけばいい。どうせ中身は変化する。絶対化したところで何の意味があろうか?因果律は変化する。確かなのは今その瞬間にある型である。
■因果律へ型を奉納し続ける姿勢■
この考え方は『死生観』も越える。風通しの良いカラッポの型のみがサステナブルに形を維持し続ける・・・と考えた時、その型が残れば、個としての実存が消滅しても、普遍性を持続させていると見出せないか?
人が死しても枠組み同士を繋いだ上手い型は残っていく。『私』という中身はいつか消える。だが『私と他者を繋いだ線』は残る。その線にこだわることは、自我へのこだわりを捨てる先にある故、自己に対する執着心でもなんでもない。ただのカラッポの殻と線だ。上手い者は、その枠組みを1000年単位で残していく。上手い繋がりの型を抽出して、『因果律:文化・経済』へ奉納するのである。そして死して生き続ける。
なぜ文化場への型の奉納が大事なのか?『因果律』はそもそも毒も薬も混じる。人は「毒を無くせ!」と言いたくなる。そして『本質主義』になり『主体律:道徳』を絶対化する。だがそれは『行為主義』の『客体律:倫理』から観れば「私を守り、他者を変える」である。いくら臭いものに蓋をしようと、毒はそれでもそこに在るのだ。ならば我々は毒の存在を受け容れ「毒を薬にしよう」になればいいのである。
因果律は『不確実性』の塊なので実に制御し難い。しかし毒を薬にする方法が多様にあれば、我々は不条理な因果の渦中に生きようとも、実にぶっ飛んだ方向から他者を救うことも有り得てくる。自分に対しても言える。例えば「信頼関係を築けそうもないアイツと離れ」そして「繋がる人から繋ぎコツを掴む」と、いつの間にか「アイツとも繋がれそうだ」になっていたりする。そういうことだ。上手い型を因果へ奉納し続けりゃ、いつの間にか、ぶっ飛んだ方向から人は救われるのである。故に『行為主義』でいいのだ。
己が死しても生き続ける究極の枠組みとは、己自身を突破した人間関係ということだ。千利休は戦乱の世に優れた型を奉納し、今でも彼の意志は受け継がれている。ひとりの人間の苦悩の終わりが、次に続く者に託すことになる美しさが、そこに宿る。信頼の『頼る』の先にあるのは『託す』である。己自身が消えた後も、「私とあなた」の信頼関係を、私無しでサステナブルに構築し続けるのである。この姿勢が結果として四律『因果律⇄社会律⇄客体律⇄主体律』を整合させていくのである。