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石棺墓発見:吉野ヶ里の最盛期は邪馬台国と同時代

吉野ヶ里遺跡の石棺墓発見の意味を僕なりにまとめてみました。

※トップ画像:吉野ヶ里遺跡で発見された石棺墓(佐賀県提供)

佐賀県発表
佐賀県・山口祥義[よしのり]知事記者会見(5月29日)
配布資料

メディア報道例
「吉野ヶ里遺跡の「謎エリア」で新発見、邪馬台国時代の石棺墓か」
(RKB毎日放送、5月29日)


吉野ヶ里は邪馬台国時代には没落?

「吉野ヶ里遺跡は3世紀には衰退していた」
「吉野ヶ里遺跡と邪馬台国では時代が違う」

僕はずっとそんなふうに思い込んでいました。1990年代には、そのような見方が多かったように思います。

昨年亡くなられた考古学者の大塚初重[はつしげ]さん(明治大学)は1990年代に以下のように述べています。

〇(吉野ヶ里遺跡の)墳丘墓は弥生時代中期を中心としたものですから、紀元前1世紀から紀元後1世紀ぐらいの間に入ってくるもので、邪馬台国の時代とは直接的に関係がない。200年ぐらいこの墳丘墓のほうが古い
〇西暦230年代、240年代、250年代ごろまでに吉野ヶ里遺跡に人が住んでいたとすると…濠が完璧に防塞的な、防御的な性格をもった濠として役割をはたしていたのかどうか、私は多少疑問に思えるのです。国立歴史民俗博物館の白石太一郎氏などは、ほとんど濠は埋まっていたのではないか、だから邪馬台国のときの吉野ヶ里遺跡は没落寸前の遺跡だったのではないか、という意見すら述べています

大塚初重「吉野ヶ里遺跡と邪馬台国の行方」(『吉野ヶ里遺跡は語る』(学生社、1992年))

大塚さんは「邪馬台国は吉野ヶ里で決まった」みたいな、当時のメディア報道に警鐘を鳴らしたのかもしれません。

吉野ヶ里遺跡の甕棺墓(写真AC)

このような論調もあって、僕は以下のように理解していました。

  • 吉野ヶ里の墓制は甕棺墓が主体である

  • 甕棺墓は2世紀には衰退していった。だから3世紀にはクニとしても衰退していただろう

  • よって、吉野ヶ里は邪馬台国の候補地にはならない※

※中国の歴史書である魏志倭人伝によると、卑弥呼は倭国王として共立され、邪馬台国に都を置き、239年、243年、247年に魏に遣使したとされています。3世紀前半が邪馬台国の時代になります。

ところが、石棺墓発見のニュースでは「邪馬台国時代の石棺墓」と言っています。あれっと思って、吉野ヶ里歴史公園のHPをよく見たら、すでに以下のように紹介されていました。

〇吉野ヶ里歴史公園では「弥生時代後期後半(紀元3世紀頃)」を復元整備対象時期として、これまでの…研究をもとに復元整備を行っています
〇弥生時代後期(紀元1~3世紀)
国内最大級の環壕集落へと発展し、大規模なV字形の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります
〇特に北内郭では大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたります

吉野ヶ里歴史公園HP「吉野ヶ里の歴史」(2023年7月閲覧)

吉野ヶ里では北内郭に主祭殿が復元されています。あの主祭殿が登場した吉野ヶ里の最盛期は3世紀、つまり邪馬台国の時代だというのです。 

吉野ヶ里遺跡北内郭(写真AC)

僕は認識が間違っていたようです。

吉野ヶ里の最盛期が3世紀であることの根拠を調べてみました。

出土土器が「最盛期は3世紀」の根拠

調べ始めたものの、簡単ではありませんでした。調査報告書や書籍を組み合わせて、やっと理解することができました。

要約すると、以下が根拠でした(図表1参照)。

  • ①吉野ヶ里の環壕に捨ててあった大量の土器が3世紀(庄内式期)のものである。3世紀まで集落が営まれていたことを意味する

  • ②北内郭の主祭殿の柱穴から出土した土器も、3世紀(庄内式期に併行する西新[にしじん]式期)のものである。主祭殿は3世紀につくられた可能性が高い

図表1

※古墳時代の開始は箸墓古墳とされています。箸墓古墳は3世紀中頃という説がありますが、根拠が十分ではありません。僕は炭素14年代の新説により300年前後としています。

吉野ヶ里の最盛期は出土した土器の型式から判断されているのですね。長くなりますが、調査報告書や書籍から引用します。

①環壕の土器

(森浩一氏と石野博信氏の対談)
〇森浩一:吉野ヶ里遺跡の重要性のひとつは、倭人伝が書かれたと思われる時代に、あの遺跡はまだ…大集落が存続していたということ。外濠は、十分あのころまであったのではないかということです
〇石野博信:外濠がどのくらいの期間管理して維持されていたか、ということですが、埋まった年代が土器ではっきりしているのです。外濠の上層に土器がいっぱいあって、そのなかに近畿で出る庄内式という…弥生終末と思っている、そういう境目の土器ですね。それが、かけらだけど出ている。九州でも同じころだといわれている西新町[にしじんまち]式という土器が上層ではいちばん多いということです。ということは、あの外濠が埋まったのは、その時期ですね。大量に弥生末・古墳初頭の土器があるということは、埋めるときによそから大量にもってくるということはないですから、その時期までムラがあって、そして何かの事情でそこに土器をいっぱい捨てていくということがあった。だから、そこまでつづいていたということです
〇森浩一:濠などというものは維持していないとすぐに埋まってしまいます。…掘ったのが紀元前100年ぐらいで、それから紀元後250年頃までだから、約350年間。徳川政権と同じくらいの期間は大集落を維持していたということですね

石野博信討論集『邪馬台国とは何か 吉野ヶ里遺跡と遺跡』(新泉社、2012年)

〇邪馬台国時代は2世紀末から3世紀前半の、卑弥呼が倭王に共立され亡くなるまでの期間である。土器型式でいうと弥生時代終末期である
〇吉野ヶ里遺跡の環壕は、すべて弥生時代終末期、土器の編年では、畿内終末期の庄内2・3式併行期とされる佐賀平野終末期の惣座2式まで維持される
〇吉野ヶ里集落が前期以来、在地の人びとによって営まれつづけたことがわかる
〇集落をとりかこむ環壕の上層には古墳時代はじめの布留0式の土器も散見される
〇現在精査中だが…大規模環濠や南北内郭の環壕や…土塁が邪馬台国時代にも存在した可能性が高いと考えられ、また、環壕などに埋没した終末期(庄内式期)の土器からは、邪馬台国時代に吉野ヶ里集落内部で多くの人びとが活発に生活していたことを示している

七田[しちだ]忠昭『邪馬台国時代のクニの都 吉野ケ里遺跡』(新泉社、2017年)

〇南内郭西側を巡る吉野ヶ里地区Ⅴ区 SD0925 壕跡は、後期の中心的な集落域に近接していることもあり、外環壕全体の中で最も多くの遺物が出土している
SD0925 壕跡から出土した外来系土器としては、円形透かし孔を有する瀬戸内系器台、柄部を欠損したジョッキ形土器、山陰系の甕などがある。また…変容した庄内系甕(筑前型庄内甕)が 3 点出土している。時期的には布留 0 式期に併行するとみられ、環壕の埋没時期を探る上で重要な資料である

佐賀県教育委員会『吉野ヶ里遺跡』
(佐賀県文化財調査報告書第227集(弥生時代総括編1)、2020年)

②主祭殿跡の土器

調査報告書では北内郭・南内郭という用語はほとんど使われず、番号で示されていて、まず場所を特定するのが大変です。図表2のとおり、北内郭のある地区が「吉野ヶ里丘陵地区Ⅵ区」、主祭殿跡が「SB1194」になります。

図表2

〇環壕区画の内部に位置する施設として特筆されるのが、SB1194 大型掘立柱建物(主祭殿)跡である
〇SB1194 大型掘立柱建物跡の主軸は南北方向で、北側に約 200m 離れた ST1001 北墳丘墓の南北の軸線と一致することから、中期前半代に築造された ST1001 北墳丘墓を意識して建物が築造されたと考えられる
〇SB1194 大型掘立柱建物(主祭殿)跡は、北墳丘墓に対する祭祀行為(祖先祭祀)が執り行われた施設であった可能性が高い
柱穴出土土器から、SB1194(主祭殿)の築造時期は弥生時代終末期新相とみられ、2重環壕区画が成立した後に築造されたと考えられる

佐賀県教育委員会『吉野ヶ里遺跡』
(佐賀県文化財調査報告書第227集(弥生時代総括編1)、2020年)

「柱穴出土土器」の絵が図表3になります。この土器を、調査報告書では「広口壺」、蒲原[かもはら]宏行さん(名護屋城博物館館長)は「甕」と呼んでいます。

図表3

〇(番号)90~92(の土器)は大型掘立柱建物(主祭殿)跡であるSB1194柱穴から出土した
〇90は広口壺で、外面の器面調整はタタキである。91は屈折口縁の鉢と見られ、内外面にハケメがみられる。92は単純口縁の鉢で、丸底になるものと考えられ、器面調整は内面がハケメ、外面は摩耗のため不明である

佐賀県教育委員会『吉野ヶ里遺跡』(佐賀県文化財調査報告書第207集(第2分冊)、2015年)

〇SB1194…柱穴No.6から出土している右上りのタタキをもった甕は畿内系のいわゆる伝統的第Ⅴ様式型甕ないしその模倣品と思われるものである
〇この種の甕が北部九州で認められるのは…古くとも西新式古相・惣座1式以降であって、柱穴No.3の浅い薄作りの在地系鉢も同様である
〇したがってこの建物の建設は古くみても弥生終末期以降という可能性がきわめて高いと判断される

蒲原[かもはら]宏行『弥生・古墳時代論叢』(六一書房、2019年)

ちなみに、国立歴史民俗博物館の放射性炭素年代測定データベースによると、吉野ヶ里では4試料の測定が行われています。

図表4は時代詳細(土器型式)がわかっている試料の較正(実年代への変換)結果です。須玖1式がおおむね紀元前2世紀に高い山があり、図表1の土器型式の前後関係と整合しています。

図表4

石棺墓発見の意味

佐賀県が5月29日に発表した石棺墓は、北墳丘墓の西隣に位置します。吉野ヶ里遺跡では19例目の石棺墓です。発掘した結果、残念ながら、棺内から副葬品は出土せず、年代の決め手はありませんでした。

図表2(再掲)

隣接遺跡の石棺墓出土品から邪馬台国時代と推定

副葬品は出ませんでしたが、佐賀県はこの石棺墓も邪馬台国時代と見なしています。その根拠は以下になります。

  • 佐賀平野では弥生中期の甕棺墓→土壙墓→弥生後期から終末期(邪馬台国時代)の石棺墓という変遷がみられる

  • 吉野ヶ里遺跡に隣接する松葉遺跡や坊所一本谷遺跡の石棺墓からは、方格規矩鏡、長宣子孫系連弧文鏡が出土し、弥生後期と推定できる。石動[いしなり]四本松遺跡の石棺墓からは弥生終末期の土器が出土している

  • よって、吉野ケ里遺跡の石棺墓は、副葬品が出土しなくても、隣接する遺跡の例から弥生後期後半から終末期(邪馬台国時代)と推定できる

※2023/7/3公開時点の記事では隣接する遺跡と石棺の構造が類似していることも根拠としていましたが、詳しく調べたところ、石棺の構造の類似までは確認できませんでした。記事をお詫びして修正します。(2023/8/21)

僕も今回の石棺墓は邪馬台国時代の可能性が高いと思います。ただし、今回の石棺墓からの出土品で年代を推定できないのは残念なところです。

本来は墓坑から出土した土器の型式によって推定できるといいのですが、今回の石棺墓から出土した土器は、弥生中期の甕棺墓の破片で年代推定には使えないようです。

佐賀県は9月に石棺墓周辺の発掘を再開します。周囲が溝で囲われていて、溝から土器が出土する可能性があります。庄内式、西新式の土器が確認できれば、3世紀の石棺墓であることがより明確になります。

期待したいと思います。

吉野ヶ里では、邪馬台国時代の遺構として、主祭殿跡や物見櫓跡が見つかっていましたが、同時代の有力者の墳墓が見つかっておらず、謎とされていました。

※北墳丘墓は弥生中期の墳墓です。

今回の石棺墓は以下のような特徴をもっています。

  • 見晴らしのいい高台に単独で埋葬されている

  • 石棺内面全体に赤色顔料が塗られている

  • 「✕」「キ」などの線刻がほどこされている

  • 墓坑が3.2mと、吉野ヶ里の一般的な石棺墓(2m)よりも大きい

まさに邪馬台国時代の吉野ヶ里遺跡の有力者の墳墓の可能性が高いのではないでしょうか。

吉野ヶ里は邪馬台国か?

3世紀の遺構や墳墓が出そろったとしても、吉野ヶ里が邪馬台国だと確定できるわけではありません。ただ、吉野ヶ里は宮室・楼閣・城柵といった魏志倭人伝に記述された施設がそろっています。 

吉野ヶ里歴史公園HPの弥生Q&Aによると、吉野ヶ里の人口は最盛期でも約五千人とされ、魏志倭人伝に記述された「7万戸」には届かないという説があります。

僕は魏志倭人伝の「7万戸」は誇大だと思います。後漢書郡国志によると、長安のある京兆尹[けいちょういん]が5万3299戸、朝鮮半島の出先機関である楽浪郡[らくろうぐん]が6万1492戸とされています。邪馬台国が大陸の大都市と同規模ということはありえません。

魏志倭人伝は倭国を南の遠方の大国に見せようとしています。

吉野ヶ里の最盛期が3世紀であれば、邪馬台国の候補地の資格は備えているといっていいでしょう。

石棺の線刻は夏の夜空と一致!?

2023年7月4日(火)のNHKクローズアップ現代は「邪馬台国はどこに~日本古代史最大のミステリーに迫る~」です。

吉野ヶ里の石棺墓で新たな謎が浮かび上がったとしています。

わずか30分の番組ですが、どのように謎に迫るのか、楽しみです。

(7/5追記)
クロ現の番組内容は以下のリンクから振り返れます。

邪馬台国どこに?九州説・近畿説/吉野ヶ里遺跡の最新発掘の成果は?専門家が読み解く

吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味を最新の考古学・天文学から読み解く

番組の吉野ヶ里に関する内容について、僕の感想です。

番組では、吉野ヶ里が邪馬台国と同時代が前提になっていて、根拠は深掘りされませんでした。放送時間が限られるので、番組内では難しいかもしれませんが、実年代の特定は歴史学の根本であり、メディアにはその根拠を問う姿勢がまず必要だと思います。

寺沢薫さん(纒向学研究センター)は石棺墓がランクの低い人物の墳墓とコメントしていました。副葬品が出なかったからだと思います。副葬品で判断するのであれば、纒向古墳群もホケノ山までは目立った副葬品は出ておらず、同じぐらいのランクと言っていいと思います。

石棺墓は吉野ヶ里の中ではサイズも大きく、片岡宏二さん(福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター)の吉野ヶ里のリーダー説に賛成です。トップクラスは木棺に埋葬され、石棺はセカンドというのは吉野ヶ里には当てはまらないのではないでしょうか。

石棺の線刻は夏の夜空という説は面白かったです。

〇ふたに刻まれた「✕」を星と見立て比べてみると、夏の夜空に浮かぶ星々と次々に一致しました
〇さらに、おりひめ(ベガ)とひこ星(アルタイル)を分かつように流れる銀河「天の川」も。天の川の中心を貫く帯状の暗い領域「暗黒帯」もきちんと再現されているといいます
〇「(天の川は)月が出ていないときに私たちの上に輝き、その端は地上と結ばれている。それを天と地を結ぶ何か懸け橋のような形で、死生観とも絡めてイメージされた可能性があるのではないか」(北條芳隆さん(東海大学))

NHKクロ現HP「吉野ヶ里遺跡発掘/石棺墓 “×”(バツ)の意味を最新の考古学・天文学から読み解く」

線刻と実際の夜空の図を比べてみると、本当にぴったりです。偶然とは思えません。天文考古学の成果も、調査報告書にも盛り込んでほしいです。

(2023/12/6最終更新)

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