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写真を通して広まった鉄筋コンクリート建築

昔の読書メモを読み返してみるシリーズ。今日は『メディアとしてのコンクリート 土・政治・記憶・労働・写真』 エイドリアン・フォーティー 著、坂牛卓+邉見浩久+呉鴻逸+天内大樹 訳です。

近代にはじまったコンクリートの意匠と文化の真価を、精選された建築写真とともに読み解く快楽。自然の材料か、歴史性を持ちうるか、芸術の対象たりうるか。「建築と素材」というテーマに新たな思考を切り開く歴史観。RIBA協会長賞受賞。

木はあたたかみ、コンクリートは冷たい感じ……建築に使用される素材は共通認識的に想起されるイメージを持っています。現実の建物でもそうだし、アニメなどの映像作品でも、コンクリートはスタイリッシュであったり、スマートな印象を見せるために扱われます。よくよく考えてみると、素材自体にあるイメージが付加されていることは興味深いです。

また、コンクリートは自然に発生するものではなく、人の手によって生成されるものであります。ということは、原材料が存在するし、そこには労働が発生します。ほかにも、先に紹介した『イタリアのブルータリズム建築』で語られているようにコンクリートはある種のイデオロギーを示す政治的・文化的なものとしても扱われます。

このように、建築の素材ひとつ取ってみても、そこには多面性が存在します。本書は、「コンクリート」という素材を様々な視点から見ている点で興味深いです。今回は、その中でも「写真」についての記述を簡単に見ていきます。

近代建築が工業的建築物を流用したという話は今日ではよく知られているが、そのやりとりが写真を通して行われたという事実を忘れてはならない。その議論を支えていたのは構造物の画像であり、構造物そのものではなかった。このまったく新しい文脈の中で流通し始めた画像は、「記録」として純粋な商業的理由によって撮影されてきたが、それらが今や、捉えたあらゆるものに美しさを見出すという、よく言われるカメラの効果に従うものとなった。

340頁

下記の記事で触れたように、近代建築が普及するにあたっては写真が大きな役割を果たしました。近代建築の巨匠ル・コルビュジエは来たるべき建築の姿として「サイロ」等を参照しました。そこで写真が大きな役割を果たしたということでしょう。当然、当時はインターネットのようなものはなかったので、なかなかいくことができない遠方の情報を知る面では写真が絶大な影響力を持ちました。

ヴェルナー・リンドナー(Werner Lindner)というドイツ人技術者が著した二冊の図録は、写真の力によってコンクリート構造物が凡庸さを捨てて美の対象となった好例である。最初の本、建築家のゲオルク・スタインメッツ(Georg Steinmetz)と一九二三年に制作した『技術建築の良いデザイン(Die Ingenieurbauten in ihrer guten Gestaltung)』では、ドイツの建築会社の保管文書にあった石炭庫や飛行機の格納庫、様々なサイロの写真を、歴史的な建築の例と並走して掲載することで形状の類似点への関心を引いた。……(中略)
これらすべての出版物で共通して、コンクリート構造物は美的特性がカメラによって強調され、元にあった画像の商業的目的を凌駕した。

340頁

写真を巧みに扱い、編集の妙によってコンテクストを与えていたことが伺えます。久しぶりに読んだのですっかり抜け落ちていますが、同時代的にこういう書籍がどんどん出てきた背景に思いを馳せるのも面白そうです。

こうして工業的な建築の美しさに魅せられた建築家たちが、鉄筋コンクリート建築を使った建築を試みることになりますが、その価値を知らしめるのにも写真が一役買ったというのも興味深いです。

一九二〇年以前の鉄筋コンクリートによる「建築的」な作品のほとんどは、他の材料で施工されたものと十分な違いがなかったので、鉄筋コンクリートには文化的価値があるということを人に確信させることができなかった。写真がそれを変えた。写したものが何であれ美しく見せられる写真の力を通して、鉄筋コンクリートは近代建築の主役となったのである。

341頁

建築と写真が密接に結びついていることを示す話です。この後にはコルビュジエによる建築の定義「量塊の、光のなかの巧みで正確で崇高な戯れ」は写真の定義とも言えるくらいだ、と続きます。写真によってそうした恩恵を受けた一方、建築が写真に引っ張られることもあったようです。これは写真メディアが大きな力を持つ現代でも同じ構造が続いているのではないかと思います。

建築が何をもたらすために存在するのか、生活のためなのか、権威を表象するためなのか、美的さを示すためなのか。それによって写真との距離は変わってきます。問題なのは、そうした目的に関係なく、多くの建築が写真に引っ張られすぎて美的な側面を強調しようとしたことにあるのでしょう。

こうした話題は、『建築のかたちと金融資本主義』で語られる金融資本主義における建築の姿とも続いているように思います。金融資本主義時代の建築は、あくまで投資目的で買うことが多いので、住み心地のようなものの優先度は低くなります。そこで、遠方の購入者が写真でも視認できる「眺望」が重要な要素になるそうです。なので、金融資本主義に最適化された建築は「眺望マシーン」になると。

実際の時間と空間の中での触覚、嗅覚、聴覚、身体的な動きなどと連動する社会的な経験とは異なり、眺望は単一の感覚的な経験である。肉体的な経験とはほとんど別個であるくらいに単純化された抽象的な経験となっており、ほとんどの場合、孤独の中で体験される。周辺環境の特徴との関係で見れば、この物理性の欠如ほどに抽象的な方法はない。眺望は自分がいる場所ではなく、周辺にあるものを見ることを前提としているため根本的に相関的なものだが、単一の感覚に依存しており、この単一性がその力の源泉である。このような非物理性から、眺望はかなり表現しやすい建築属性なのだ。

建築のかたちと金融資本主義―― 氷山、ゾンビ、極細建築』マシュー・ソウルズ 著、牧尾晴喜 訳 215頁

金融資本主義に最適化された建築はまた別の話にはなりますが、建築のデザイン的な潮流で言うと、だからこそ近年は、このnoteでも度々触れている『名建築は体験が9割』『建築と触覚』や『EXPERIENCE 生命科学が変える建築のデザイン』で言及される視覚以外の感覚も統合された「体験」への注目が高まっているのでしょう。

ここで、ゲームやソーシャルVRで営まれている「バーチャルフォトグラフィー」の営みについて考えてみるのも面白そうです。なぜなら、ゲームやソーシャルVRはまだ視覚が大きなウエイトを示している世界なので、現実の写真とは、前提がかなり異なります。

撮影している人自身が経験しているのも視覚が大きなウエイトを示しているので、その写真を見る人も同じような前提に立つことができます。なにより、ゲームやソーシャルVRは撮影された場所に行こうと思えばすぐに行けてしまうのも異なる面でしょう。

ここから、どういうことが考えられるのかはまだ深化できていませんが、イギリスのメディア文化理論家、メディア・アーティストのセス・ギディングスは、ゲーム(バーチャル空間)それ自体をカメラ・オブスクラとして捉えていたのは興味深いです。

セス・ギディングスは、ゲームの世界そのものを、現実の光が届かない(不可視光線に満たされた)ブラックボックス=カメラ・オブスクラとして捉えていた。

ヴァーチャルなカメラと、それが写すもの:『エクリヲ vol.11』所収|谷口暁彦

それはむしろ、太陽なきヴァーチャルな世界、暗い部屋、つまりは真のカメラ・オブスキュラから生じた諸々の出来事を変換 レンダリングすることである。

「光なきドローイング : ビデオゲームにおける写真のシミュレーション」『エクリヲ vol.9』|セス・ギディングス 著、増田展大 訳


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