「ウィルス時代に教える(生きる)とは」 その2 著者 / ボローニャ大学教授フェデリーコ・ベルトーニ 訳者 / 入江風子
著者 / フェデリーコ・ベルトーニ
略歴
ボローニャ大学で文学理論を教える。 主な作品には、「疑わしい真実。ガッダと現実の発見」(エイナウディ社、2001年)、「リアリズムと文学。起こりうる歴史」(エイナウディ社、2007年)、「ユニヴァーシィタリー。箱の中の文化」(ラテルツァ社、2016年)。 イタロ・ズヴェーヴォの批判校訂版「劇場と評論」(モンダドーリ社、2004年)を監修。 2017年には最初の小説「4月25日(イタリア解放記念日)に死ぬ」(フラッシネッリ)を出版。過去に比較文学と理論協会(コンパリット)の会長を勤めたこともあり、現在カンピエッロ賞審査員のメンバーでもある。
第一節(その1)はこちら https://note.com/fukoirie/n/nae1327eeba95
第二節 終末論者と順応主義者
ここ数週間、新聞、ブログ、ソーシャルメディアの多くは、同義語として混同された多くの名詞を何度も混ぜ合わせています:データ通信学習、遠隔学習、デジタル教育、オンラインレッスン、ビデオレッスン、eラーニング。しかし、異なる言葉の背景には異なる事実があります。 おそらく全ての身分と学位のほとんどすべてのイタリア人教師が、eラーニングを行っていないということを私たち自身と世論に明らかにする必要があります。繰り返しますが、私たちはeラーニングは行っていないのです。eラーニングと英語の語彙を使いますが、その方が教育実践の意味で最も成文化されているからです。チャンネル、プラットフォーム、方法、時間、相互作用と学習の方法、また公立大学(広く言えば公立学校)とは非常に異なる銀行振込方法など。それはいわゆるデータ通信大学の日常的手法であり、完全に異なるものです。衛生上の緊急事態のため、私たちは教室で、目の前で行っていたであろうことの代替ツールとして、デジタルテクノロジーを使用しているのです。また、柔軟で戦略的な知性を上手に利用することで、転売式に、私たちの知識の質を疑惑の機械独裁政権に売ることなくうまくやることも出来るのです。現時点では代替案はないから私たちはそれを行うのです。技術的な強制が、大臣や学長のスピーチで誇示される果たして本当に起こり得るのか分からない驚くべき教育法革新のチャンスだからではないのです。基本原理は、しばしばその世界観であることが多いです。ペストの時代にデジタル媒体のおかげで素晴らしい授業を展開できるのではなく、デジタル媒体を使っているのにも関わらず素晴らしい授業ができるのです。そして媒体は必ずしもメッセージではありません。 少なくとも完全には。
失望的なことですが、結局私たちは1964年のウンベルト・エーコ著の、ヒット作でありながらもしばしば誤解されている本(注1)のカテゴリーと常に同じところに行き詰まっているのです。この本は教育のコンテクストによって再調整され、カタストロフィーのイデオロギー的パトスによって過激してきました。一方で年老いた終末論者教師、保守主義でアンチモダン、または公然としたラッダイト運動参加者(無謀な破壊主義者)はイノベーションを頑固に拒絶し、歴史に埋もれます。もう一方で他の順応主義的教師(特に役職者)は、テクノロジーに狂信的に熱心で、技術革新を真っ向から善神として崇拝します。つまり、イノベーションとして便利で有益ですが、手段と目的について真の省察がない。とトト(注釈 : 喜劇俳優)は言うでしょう。(注2)ここにもジャーナリストと世論のためのニュースがあります:それは、狂った科学者や書類の山の間のカビの生えた学者のステレオタイプを引退させる時だと言うことです。イタリアの大学の教師がデジタルテクノロジーの使用方法を学ぶ為には新型コロナウイルスCovid-19など必要なかったのです。長年にわたって通常の大学の作業ツールであり、現在、すべての教育および研究活動をカバーするさまざまなアプリケーションがあります。(プロジェクト、デジタルアーカイブ、コースプログラム、試験および卒業の議事録、交換留学制度、スライドや教材、マルチメディア授業 - 電子メールなど言うまでもなく一つの職業です。)実際、私たちが生活している常にビデオ会議している境遇は、新しいツールと特定の能力、場合によっては多少洗練されたコンピュータスキルで充実させることができますが、避けて通れません。では、正確には何について話しているのでしょうか?緊急事態に直面するための景気解決策または常識の改革運動? 情報技術の世俗的な使用やイデオロギーの旗(保守主義の教授、おそらく共産主義者でもある)を他の目的のために人々の前で手を振ったのですか?私たちの多くが遠隔学習に不信感を抱いていると考えているのは、傲慢な無謀な破壊運動のせいではないことは間違いありません。この災いで許容できる妥協点くらいしかないのです。確かに、私たちは仕事を改善できるイノベーションや機器を使用する準備ができていますが、愚鈍な技術的改革運動なしに、何よりも私たちや学生の感じ方には商人の思惑買いはありません(第五節を参照)。ドン・デリッロが20年以上前に書いた、テクノロジーが「現実を実現する」時代に生きています。 「私たちの運命を築くのに役立つからです。 しかし、それはまた信用できなく制御不能です。 どんな方向にも行けてしまうからです。」(注3)
注釈
注1. ウンベルト・エーコ「終末論者と順応主義者」ボンピアーニ社、ミラノ、1964年出版 参照
注2. エマヌエーレ・ズィナートのレオパルディの対話篇「遂に!学部の同僚を集めた半分真面目なポスト・エピデミックの対話」、文学と私たち(ラ・レッテラトゥーラ・エ・ノイ)、2020年4月16日付を見てください
https://www.laletteraturaenoi.it/index.php/il-presente-e-noi/1164-%E2%80%9Cfinalmente-%E2%80%9D-dialogo-postepidemico-semiserio-fra-colleghi-di-dipartimento.html.
注3. ドン・デリッロ「裏社会(1997年原語出版)」エイナウディ社、トリノ、2000年翻訳出版、p. 182
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