![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/167755407/rectangle_large_type_2_6b00113442565e2eae140da84f737a97.png?width=1200)
【ショートショート】伽藍堂
ぼくはなにもない部屋に立っていた。
ここはどこだろう。
いや、それ以前に、ぼくは誰だろう。自分の名前を思い出すことができない。
頭のなかが真っ白。
思考できるのだから言葉は忘れていないが、個人的な出来事についてはいっさい思い浮かばない。誰の顔も思い浮かばない。
ぼくは自分の姿を観察した。黒いズボン。青いシャツ。紺色のセーター。靴下は白だ。ポケットの中には大金といっていい札束が入っていた。
部屋を出て廊下を歩くと、エレベーターホールに出た。一階まで行き、外に出る。オートロック式だから、二度とあの部屋に戻ることはできない。
すこし歩くと街の中心部に出た。
マンガ喫茶に入って、パソコンを起動した。検索ページを開く。
しばらく待っていたら「記憶障害」という言葉を思い出した。ローマ字入力を使い、キーボードから言葉を打ち込むことができた。身体的な記憶は残っているようだ。
関連しそうなページを次々に開いていくと、やがて「伽藍堂」のホームページに行き着いた。「すべての記憶を消去し、人生をリスタートします」とある。
ぼくは地図を見て、現在地からいちばん近い伽藍堂を訪ねた。
石畳の長い階段を登ると、大きなお寺があった。社務所にいた人に、
「ぼくを知りませんか?」
とたずねると、
「こちらへどうぞ」
と小さな和室に案内された。
やがて袈裟を着たお坊さんが部屋に入ってきた。
「あなたはここへやってきて、全部やりなおしたいと申されたのです」
どんなひどい体験をすれば生きてきた痕跡を消したくなるのか、想像もつかない。
「その理由は聞かないほうがいいのでしょうね?」
「ええ、聞かれても教えません。そういう契約です」
とお坊さんは答え、ぼくにカードを一枚くれた。
「これが証明書になるでしょう」
伽藍堂のカードを出すと、スマホやアパートを契約し、ハローワークで仕事を見つけることができた。
ぼくが就職したのは、ビルの清掃会社だ。仕事にはすぐに慣れた。社員はぜんぶで三百人ほどいる。
困ったのは名前だ。伽藍堂さんと呼んでもらうわけにはいかないようだった。ぼくのほかにも伽藍堂のカードを持っている人がたくさんいる。
しばらくすると、ぼくは「ちょっとさん」と呼ばれるようになった。自分では意識しないが、口癖らしい。ほかの伽藍堂さんたちも特徴をとらえて「ふとっちょ」とか「いまいち」とか「肉じゃが」などと呼ばれていた。肉じゃがさんはきっとおいしい肉じゃがを作るのだろう。
(了)
ここから先は
![](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/2631/profile_0442fbe1840df3955cb8f5545730f4d2.jpg?fit=bounds&format=jpeg&quality=85&width=330)
朗読用ショートショート
平日にショートショートを1編ずつ追加していきます。無料です。ご支援いただける場合はご購読いただけると励みになります。 朗読会や音声配信サー…
新作旧作まとめて、毎日1編ずつ「朗読用ショートショート」マガジンに追加しています。朗読に使いたい方、どうぞよろしくお願いします。