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【ショートショート】伽藍堂

 ぼくはなにもない部屋に立っていた。
 ここはどこだろう。
 いや、それ以前に、ぼくは誰だろう。自分の名前を思い出すことができない。
 頭のなかが真っ白。
 思考できるのだから言葉は忘れていないが、個人的な出来事についてはいっさい思い浮かばない。誰の顔も思い浮かばない。
 ぼくは自分の姿を観察した。黒いズボン。青いシャツ。紺色のセーター。靴下は白だ。ポケットの中には大金といっていい札束が入っていた。
 部屋を出て廊下を歩くと、エレベーターホールに出た。一階まで行き、外に出る。オートロック式だから、二度とあの部屋に戻ることはできない。
 すこし歩くと街の中心部に出た。
 マンガ喫茶に入って、パソコンを起動した。検索ページを開く。
 しばらく待っていたら「記憶障害」という言葉を思い出した。ローマ字入力を使い、キーボードから言葉を打ち込むことができた。身体的な記憶は残っているようだ。
 関連しそうなページを次々に開いていくと、やがて「伽藍堂」のホームページに行き着いた。「すべての記憶を消去し、人生をリスタートします」とある。
 ぼくは地図を見て、現在地からいちばん近い伽藍堂を訪ねた。
 石畳の長い階段を登ると、大きなお寺があった。社務所にいた人に、
「ぼくを知りませんか?」
 とたずねると、
「こちらへどうぞ」
 と小さな和室に案内された。
 やがて袈裟を着たお坊さんが部屋に入ってきた。
「あなたはここへやってきて、全部やりなおしたいと申されたのです」
 どんなひどい体験をすれば生きてきた痕跡を消したくなるのか、想像もつかない。
「その理由は聞かないほうがいいのでしょうね?」
「ええ、聞かれても教えません。そういう契約です」
 とお坊さんは答え、ぼくにカードを一枚くれた。
「これが証明書になるでしょう」
 伽藍堂のカードを出すと、スマホやアパートを契約し、ハローワークで仕事を見つけることができた。
 ぼくが就職したのは、ビルの清掃会社だ。仕事にはすぐに慣れた。社員はぜんぶで三百人ほどいる。
 困ったのは名前だ。伽藍堂さんと呼んでもらうわけにはいかないようだった。ぼくのほかにも伽藍堂のカードを持っている人がたくさんいる。
 しばらくすると、ぼくは「ちょっとさん」と呼ばれるようになった。自分では意識しないが、口癖らしい。ほかの伽藍堂さんたちも特徴をとらえて「ふとっちょ」とか「いまいち」とか「肉じゃが」などと呼ばれていた。肉じゃがさんはきっとおいしい肉じゃがを作るのだろう。

(了)

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