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ローマの遺跡で写真を撮った僕が、突然感じた複雑な思い。

はじめてのローマ旅行。街に向かう道中、石畳や古びた建物が広がり、すぐにローマらしい風景が目に飛び込んできた。どこかの映画で見たような景色が続き、そのどれもが僕に「ここは歴史の街だ」と強く語りかけてくるようだった。そして、その中でも圧倒的な存在感を放っていたのが、コロッセオだ。

遠くからでもすぐにわかる、その重厚な姿。間近に立つと、その大きさと威圧感に圧倒された。2千年もの歴史を抱え、いまだにここにそびえ立つこの建物には、言葉にできない重みがあった。観光客たちは賑やかに集まり、みんな思い思いに写真を撮っていた。僕もその波に飲まれ、スマホを取り出し、コロッセオを背景に自撮りをすることにした。

「はい、チーズ」とつぶやきながら笑顔を作り、シャッターを切る。だが、その瞬間、心の中で何かが引っかかる感覚があった。

僕はこの場所で、無邪気に笑っていいのだろうか?


コロッセオは、ただの観光地ではない。
かつて、ここでは剣闘士たちが命を懸けて戦い、観衆はその血なまぐさい戦いを娯楽として楽しんでいた。彼らは、死をも賭けた闘いの中で歓声を浴び、命の終わりさえも大勢の前で見届けられた。その光景が頭に浮かんできたとき、僕の笑顔はどこか場違いなものに思えてきた。

スマホの画面に映る自分を見返す。そこには、陽気に笑顔を浮かべる僕が写っている。でも、その背後にあるのは、命のやり取りが繰り広げられた歴史的な舞台だ。この場所には、何千もの命が散っていったことを考えると、無邪気な笑顔は急に軽薄なものに感じられた。



観光客として訪れる僕たちは、コロッセオをただの「壮大な遺跡」として見てしまいがちだ。しかし、この建物の本当の意味は、それ以上に深く、重い。歴史の教科書や映画で描かれる「ローマの栄光」の陰に隠れた、人々の命や痛み、苦しみを忘れてはいけない。この場所で生き、戦い、そして命を失った人々の記憶が、今もこの石造りのアリーナに刻まれている。



僕はもう一度、コロッセオを見上げた。観光客の笑い声やシャッター音が響く中、目の前のこの遺跡が、まるで僕に何かを語りかけているように感じた。僕たちはこの場所で、ただ楽しむだけでいいのだろうか? 歴史を学び、過去の出来事をただ知識として知ることと、実際にその場所に立って感じることの間には、大きな違いがある。

次にこの場所を訪れるとき、僕はどんな感情を抱くだろう? また同じように笑顔で自撮りをするのか、それとも、もう少し違う表情でコロッセオを見つめるのだろうか?


著書もぜひ読んでください!

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藤代圭一
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