藤乾®︎

無頼派と呼ばれる人びとが好きな懐古的青年者。 主に日記と、織田作之助と持ってる書籍に関しての備忘録。

藤乾®︎

無頼派と呼ばれる人びとが好きな懐古的青年者。 主に日記と、織田作之助と持ってる書籍に関しての備忘録。

最近の記事

さるく

「さるく」——と言う言葉がある。長崎弁でぶらぶら歩くという意味だ。私は散歩をするだとか、歩きまわる、という言い回しよりもこの「さるく」を愛している。 私の母は長崎県の生まれで、今でも祖母は松浦市の海沿いに住んでいる。潮と魚の匂いが漂い、最寄りの電車は今でも一時間に一本の、小さな、小さな町だ。朝や夕に隣の島との連絡船があり、ボー。と汽笛が静かな港町に響き渡る。 「船の来たっちゃんね」 今年の10月14日で91歳になる祖母が言う。 「ゆみこばそろそろ向かえに来よらせんか」 「そ

    • 美味礼讃

      Eat to live, not live to eat. というイギリスのことわざがある。 生きるために食べよ、食べるために生きるべからず。 直訳するとそういう意味で、手段が目的になるな、という人生の哲学的なメッセージを有している。 では生きるために食べるとはどういうことか? 栄養を摂っていれば生きられるのだから、それで充分? 因みに私は白い食べ物とサプリメントで過ごしていた時期がある。白い食べ物とは米や麺、大豆製品、乳製品。あとの栄養はサプリメントでよい。そんな考

      • 湯田温泉

        湯田温泉、へ行ってきた。はじめての街。いや、町。 駅に降り立った最初の印象は「町」だった。 バスで向かう予定が、オダサク倶楽部の締め切りに追われ、新大阪から新山口へむかう新幹線に乗車する。車内でも手直しをし、城アプリでお城を集めながらトンネルの多い山陽新幹線を西へ。 新山口駅からワンマン電車に乗って、湯田温泉駅へ向かうのだが、久々に電車の中に扇風機が回るのを見、まさしく「網棚」を見た。窓の上部は開閉でき、風が入るようになっている。母方の祖母が暮らす長崎の松浦鉄道も同じ感じで

        • 【創作#1】「三部曲」

          初、そして初

          初、和歌山。 初、高野山。 隣にあるのに中々行く機会を逸していた和歌山へ、初めて行くことにした。来週は元々八ヶ岳へ、外国人数名に連行される予定があったので、その前に行っておきたい気持ちがあった。 土曜日は28日のオダサク倶楽部のことで色々話さなあかん事とかやる事があったので、行くなら日曜日と決めていた。 快晴。 青、という感じの夏の空。 例年七夕といえば雨が降っているものだったが、今日は晴れ渡っていた。最高の登山日和。事前に天気予報を見ると、大阪市内は38℃予報らしく、

          初、そして初

          睡眠不足

          眠れない夜、はよく言うが、 私の場合は眠れない朝、である。 4時過ぎから目が覚める旨は昨日の日記に書いたが、 朝は何をしているかというと、こっそり詩を作っている。 ——いや、この言い方はよろしくない。作っていた。 元々対面で言葉にするのが苦手だった。 吃音気味の過去のせいか、正しい言葉を発しないと罰を受ける家庭のせいか。それは定かではないが、発したが最後、胃の重くなるのを感じていた。 「間違いを、おかしてはいないだろうか?」 私にとって吐き出す言葉は決して自由たりえなかっ

          蝉喘息

          朝の4時ごろ、ひどい咳き込みで目が覚める。 息を吸うともっとひどくなり、喘鳴が鳴る。 こうやって目が覚めると「ああ、夏が来たなあ」と、 しみじみと感じる。理屈はわからないが夏が訪れると喘息が出てくるのだ。そうして8月頃に少し落ち着いて、また秋の台風で再発するまでがセット。 元々ストレスがかかると喘息の発作を起こしていたのだが、誤嚥性肺炎をやってから余計ひどくなった気がする。さらに追い討ちでコロナがあったものだから、私の気管支と肺と気管支はきっと老人並みに違いない。 今日

          六尺サイズのこんちきちん

          コンコンチキチン、コンチキチン…… コンコンチキチン、コンチキチン…… 7月になり、陽が落ちると囃子の音が聴こえる。 家向かいの公園で夏祭りの練習を子どもたちがやっているのだ。音色からして六尺サイズのこんちきで。 街灯の薄明かりの下、小さな祠の前で一所懸命にコンコンチキチン、コンチキチン……初めの2拍は太鼓の音に合わせて「コン、コン」それから鉦だけ「チキチン」それを何度か繰り返した後、速度を増した太鼓と鉦が「チキチンチキチンチキチンコンコン……」 この早くなった囃子を、祭

          六尺サイズのこんちきちん

          養老

          老人をいたわり世話すること また、老後を安楽に送ること—— 祖母が亡くなった。昨日の朝の出来事だった。 祖母は祖父と岐阜県養老郡に暮らし、不登校気味だった私はよく祖父母の家へ預けられた。 祖父が亡くなったのはもう随分前で、私が高校生の時だった。ダンスの授業中に危篤の電話があり、急いで駆けつけたがダメだった。祖父だけが私の鬱を見抜いていた。「ホラ、肉食え」と、口数は少なかったがよくものを食べさせてくれた。 祖母はそんな祖父をたしなめたり、祖父の頑固で気難しい様子を愚痴ったり

          男の子はいつだって

          格好いいものが好き、らしい。 今、直木三十五記念館のグッズを考えている。 男性も手に取りやすいようにと色々案を練ったが、まあ1人で作っているわけではないので、暗礁に乗り上げた。 行き詰まって行き詰まって、ここ2日ほど現実逃避をしていた訳だが、男性当事者に意見を聞けばいいじゃないか!と、思い立ち、気軽に聞けそうな3人に意見を聞いた。 三者三様の意見が出る……かと思いきや、おおかた共通していたのは「かっこいいのがいい」ということだ。分かりやすさとか、親しみやすさとか、そんな

          男の子はいつだって

          桜桃忌

          6月19日 今日は桜桃忌であり、太宰治の誕生日である。 昨日は日本列島が大荒れの雨模様であったが、おそらく太宰を捜索した時も同様の雨だったのではないかと思いを馳せた。幸か不幸か、雨は昨日のうちに上がり、今日は晴れ渡る空を見せている。悲しむより祝ってくれと言わんばかりだ。 太宰治に関して複雑な思いを抱いている話は過去に書いたかと思う。今も形は変われど同じで、今日も複雑な気持ちのままだ。どちらにも振り切れぬ。 悲しみは悲しみで、忘れてはいけない気がするからだ。 土手に下駄の

          明け方5時の小さな魔神

          若草色と琥珀を散らした瞳、 桃色と褐色が混在する肉球、 口元は紳士のお髭のようで、 フワフワの毛並みは最上級の撫で心地。 ——そう、猫。 この愛らしい天使は、たまに恐ろしい魔神と化す。 主に朝の3時〜5時あたりに、薄明かりの下ガサゴソと何かを物色し、毛を逆立て疾風の如く駆け回る。 その時の獣にぶつかったら命の保証はない。 「ナーーーー」と良く響く奇声を上げ、腹を見せて油断させる。もしこのとき、まんまと腹を撫でてみろ、その丸い目をもっと丸くして牙を向くだろう。 手足を絡めて

          明け方5時の小さな魔神

          自由とお金とその先と

          昇給、するらしい。 今はシフト制なのだが、それが固定休になり、代わりに終業後に課題が始まる。その課題をクリアーしてまた次のステップへ行くと、またさらに昇給……といった仕様だ。 お金が増えるのは喜ばしいことだ。が、休みを自由に決められなくなる。友人や知人と会いづらくなる。仕事終わりも自由時間が減ってしまう。お金のために。 人はなんのために生きるのか、と度々問われる。 生活のためだとか、趣味のためだとか。 私は何のために生きていただろう。少なくともお金だけのためでは無かったは

          自由とお金とその先と

          毎日ニュース

          子供の頃は、毎日のニュースは変わり映えしないと思っていた。いや、事実、同じことを割と繰り返して報道していたように思う。なにか少しの差だけ、あるような、ないような。 しかし今、テレビのニュースを観ない代わりに、周囲のニュースが目に飛び込むようになった。それは報道されているものよりずっと小さくて、少し外から見れば大したことのないニュースなのだろう。でも私にとってはそれがすごく大きくて、一喜一憂し、愛おしい。 手のひらの金魚の本が徳田秋聲記念館さんで取り扱うよになるだとか、本が

          毎日ニュース

          一筆箋

          好きです、一筆箋。 前々からデザインしていた『新戯作派 一筆箋』が、ようやく形になりそうです。なぜ時間がかかったかというと100部からの注文やったので(笑) でもなんとか入稿できました。7月11日、私の誕生日頃届くそうです。たまたまなのですが、今や!と背中を押してくれた気分になりました。 売れなかったら大赤字ですが、売れたら次の文字グッズを作る資金にしようと奮起しています。 また別件ですか、直木三十五記念館さんのグッズのデザインも今進行中です。文学のグッズを作れるのはと

          腐草為螢

          くされたるくさほたるとなる。 昨日6月10日は七十二候の「腐草為螢」だった。 草の中から蛍が光を放ち飛び交う頃。という意味らしい。役目を終えた草の中から、あえかながらも力強く輝く蛍の飛び出る様はとてもうつくしいように思う。 手のひらの金魚で活動をしていると、よく“復活”を目撃する。作品の復活、旧字旧仮名の復活、読者の復活、文芸の復活……。一度はくされたる、とまではいかないけれど萎びかけた文学から、新たな光がまた灯されようとしている。さながら蛍のように、あえかながらも力強い、