初、そして初
初、和歌山。
初、高野山。
隣にあるのに中々行く機会を逸していた和歌山へ、初めて行くことにした。来週は元々八ヶ岳へ、外国人数名に連行される予定があったので、その前に行っておきたい気持ちがあった。
土曜日は28日のオダサク倶楽部のことで色々話さなあかん事とかやる事があったので、行くなら日曜日と決めていた。
快晴。
青、という感じの夏の空。
例年七夕といえば雨が降っているものだったが、今日は晴れ渡っていた。最高の登山日和。事前に天気予報を見ると、大阪市内は38℃予報らしく、高野山は30℃予報であった。気温も申し分ない。
いざJRから南海線へ。ここからが長旅の始まりだ。
約片道2時間の旅が私を待っている。
新今宮で南海高野線急行に乗り換える。車内ではどこへ行くのかご年配のご婦人方が駅ごとに合流し、5人くらいの所帯になっていた。車窓からは田園風景が広がる。昔ながらの民家と、蜜柑であろうか、すももであろうか、いくつもの低木を見る。1時間くらいかけて和歌山県の橋本駅へ。ホームへ降りたてば熱風。さすがに山間に来たといえど暑い。自販機で飲み物を買い、20分後に来る電車を待つため待合室へ。待合室はクーラーが効いていて快適だった。同じく隣で電車を待っていた外国人旅行客が、なんば方面の電車に乗りかけててヒヤヒヤした。
極楽橋行きの電車が来る。せっかくやからと一番前の席へ。しばらくの後うっかり寝落ち。それほど単線は心地いい。駅看板を見れば、この電車は山を登っているのだと言う。健気な電車だ。
ガタンゴトンと揺られ、ようやく極楽橋駅へ。
そのまま登山を考えたが、朝起きるのが遅かったため潔く観念してケーブルを使うことに。六甲山ぶりのケーブルカーに胸が躍る。
六甲山ケーブルカーより車両が少なく、乗車時間も5分と短いようだった。が、動き出してわかる。とても急勾配の中昇っていることを。ショートカットもショートカットで昇っているのだ。それは乗客を沢山乗せられないし、時間も短い。
海外旅行者に混じりケーブルカーを降りる。涼しい。昇る途中に感じた涼しさの気配は勘違いではなかった。山は100M登るごとに気温が1℃下がるという。なるほど、予報どおり30℃くらいだろう。
女人堂の方を行くか、大門の方へ向かうか迷い、バスの運転手に聞く。すると女人堂の方へはバスしか行けないのだという。歩くなら大門の方だが、山の上とはいえ暑いから推奨はしないと言われた。
翌日からは仕事が控えている……大人しくバスに乗り、千手院橋へ。私しか降りないが合っているのか……と不安に。それでも時刻は昼過ぎ、腹が減っては戦はできぬと丸万へ。ざるの茶そばを注文。精進料理セットを食べて見たかったが、少々お昼にするには高かった。カレーや寿司や肉うどんなどあり、この辺りはまだそういうの気にしやんのやな、と茶そばをすする。
ごちそうさまでした、と店を後にし、奥之院一の橋を目指して歩く。30℃とはいえ、日差しはじりじりと暑い。カッコいいお寺さんが歩くたびに現れる。そして美味しそうなみろく石という餅菓子も現れる。しかしお腹いっぱい食べてしまうと歩けなくなるので「帰りに……」と保留。甘味欲が募る。
ぼちぼち歩くと弘法大師の文字が現れた。一の橋だ。
入ってすぐに供養塔や墓石群が現れた。これが噂の……!昔からテレビで見ていた光景が目の前に広がり、戦国時代オタクの私は人知れずテンションが上がる。——早速左手に仙台藩伊達政宗の墓があった。
石鳥居の向こう側に「地・水・火・風・空」を意味する五輪塔の墓石。うっすらと南無阿弥陀の梵字も見える。昔チラと調べた限り、今のタイプの墓石は江戸時代からのものらしく、平安期以降はこの五輪塔タイプの墓石がスタンダードなものらしい。誰が建てたのだろう、など色々気になる造りだった。
載せた以外にも佐竹や南部など、ありとあらゆる戦国武将たちのお墓がひしめき合っていた。初代市川團十郎の墓(供養塔?)も中の橋の左手側に鎮座しており、往来の人が足を止めていた。
——が、ここまで来て違和感に気づいた。
一応観光地とはいえ周りにあるのは墓石であって、死者が眠る場所であるので、おばあちゃんっ子的感覚からすると記録として写真に残せども、その前には手を合わせて「失礼致します、お写真撮らせていただきます」と心の中で唱えてから写真を撮り、終わったら「ありがとうございました」と後にする……のが、普通の感覚と思っていた。しかしその日出会ったのは隠れミッキーでも見つけたかの如く騒いで、何もなしに写真に収める人々が多かったのだ。まあ、でも「なんだか分からないけど有名そうなお墓」などは仕方がないかな、と特に快も不快もなく思っていたのだが、厳かであるべき場所の弘法大師廟でもそれは続いた。
脱帽しない、大きな声でお喋りする。隠れて写真を撮る。子供を走らせる。
誰が?海外の旅行客が?いいや、日本人が。
そこまで私は仏教に熱心なわけではないが、人並みに弘法大師のことは知っているし、中学時代に般若心経を習わされた身としては真言密教は馴染み深い方である。
奥之院に墓跡が沢山ある理由も、弘法大師廟にて大師様がまだ修行中ということも知っている。56億7千万年後の救済のため、いわば我々のためにも修行に励んでくださっているのだから、礼儀はわきまえねばならないし、修行の妨げになるような騒音や撮影などもっての外なのだ。
それが分からない海外の人ならまだ驚かなかったかも知れない。きっと私もアンコールワットとか、ヨーロッパのドムとか行けば、知らず知らずのうちに何かしらタブーは犯してしまう気がする。決して褒められたことではないが、これだから!と憤慨するほどでもないだろう。本人にとって“そういう”気持ちさえあればいいのだ。
しかし、その国の人間が進んでタブーを犯すのはどうなのだろう。信心どうこうとかいうレベルではない。正直、ガッカリした。
昔テレビで観て憧れた、あの荘厳で厳粛な雰囲気は、今は失われてしまっているらしい。
ぐるりと裏手に回ってうろ覚えの般若心経を唱える。途中で忘れたので「すみません、忘れました」と正直に念ずる。またぐるりと戻って正面へ。礼をしてまた橋を渡り、もう一度廟を振り返ると、目の前の男性が何かを落としていた。「あっ」と思ったがそのまま拾って談笑している。迷信は、ただの妄言と化してしまった——そんな寂しい気持ちを抱きつつ、近くの社務所へ。
せっかくここまで来たのだし、と普段は頂かない御朱印をいただこうと並んでいると、皆何冊も御朱印帳を抱えて持ってきていた。ああ、遠方の人に頼まれてるのか。すごいなあ……と思って見ていると、先ほどまで誰もいなかった窓口におじさまが座って「次にお待ちの方」と私を促した。
「紙の……御朱印ありますか?」
御朱印帳という大層なものを持っていないので、一枚で完結している御朱印があるか尋ねた。
「限定御朱印はいらない?」
と、言われたがなんの限定か見当つかず、
「げんていの……?」
とアホ丸出しの回答をしてしまった。
「高野山が世界遺産に登録されてから20周年!というような御朱印。コレ、用意する?今日から。数量限定!」
なんだか八百屋さんとか、酒屋さんとか、商店街のおっちゃん味を感じて、
「今日からなんですか、たまたま来たのでこれもご縁かもですね」
なんて軽口をたたき、金色に輝く限定御朱印も拝受することにした。
「だいたい1,500円ね」
「はい、だいたい500円のおつり」
と、なにが大体なのかは不明だったが、受け取っただいたい500円を財布にしまいこみ、横っちょにあったおみくじを引くことにした。
おみくじを引く時は、大概何に対して言葉が欲しいか?ということを念頭に置いてから引くのだが(これが大いに効果がある)そのみくじ箱は100円を入れたらすぐ出てくるタイプだったらしく、悩んでいる間にポト、と降ってきた。
第一番 大吉
もう一度断っておくが私は信心深い方ではないし、霊的なものに対しては「科学で説明できひんこともあるよね」くらいのスタンスなのだが——おみくじの大吉率が非常に高い。とくに一人でじっくり行った時などは怖いくらい大吉が出る。逆に後ろめたさを感じる時などは、凶などを引いて徹底的に文言で叱られる。
流石になにか未知の力が働いていると言わざるを得ないな。と最近はとみに思う。
帰りは一の橋ルートを通らず裏から戻ることにした。分岐までの道で親鸞聖人のお墓や、弥勒石なる重軽石もあった。この重軽石は“悪人には重く、善人には軽い”のだそうだ。20cmほどの、真四角に空いた部分から片腕を入れ、持ち上げる。私の目の前でやっている人の様子を見て、「あ、こらァ無理やな」と悟る。そもそも善人ではないのは重々承知であるので、持ち上げられる気はしなかった。いよいよ自分の番になり、腕を突っ込む。「ゴットン」片側だけ大きく持ち上がった。……どっちだ!?善人でもあり、悪人でもある。そんな哲学的なやつだろうか……。
途中の喫茶店で和歌山県産 桃フロートティーなるものを疲れた体に投入し、またゆるゆる歩く。ひぐらしがカナカナと鳴き、夏を感じさせる。
道の店店が閉まり始めていた。
みろく石は諦め、バスで極楽橋駅まで戻る。
下界へ。俗世への回帰。
そしてまた2時間ほどの電車旅。半分ほど帰り路の記憶がないのは寝ていたためか。
18時半頃、新今宮で乗り換え。大阪の暑さに驚く。
環状線で帰宅し、パタリとベッドへ倒れ込む。
目を閉じると高野山の思い出が次々に思い起こされる。弘法大師廟はいざしらず、その他は静かでとても良かった。今度はケーブルを使わずに歩いて登りたいな。今度は誰か誘って——そんなことを思いつつ、夜ご飯を買いに、疲れた体をもうひと踏ん張り、また俗世へと繰り出した。