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養老


老人をいたわり世話すること
また、老後を安楽に送ること——

祖母が亡くなった。昨日の朝の出来事だった。
祖母は祖父と岐阜県養老郡に暮らし、不登校気味だった私はよく祖父母の家へ預けられた。

祖父が亡くなったのはもう随分前で、私が高校生の時だった。ダンスの授業中に危篤の電話があり、急いで駆けつけたがダメだった。祖父だけが私の鬱を見抜いていた。「ホラ、肉食え」と、口数は少なかったがよくものを食べさせてくれた。
祖母はそんな祖父をたしなめたり、祖父の頑固で気難しい様子を愚痴ったりしていたが、そこには確かに愛情があったと思う。

養老は私にとっても故郷で、祖母が昼前に畑に百姓に出ているのを縁側からよく眺めていた。縁側といっても窓があるので、網戸によくキリギリスがくっついていた。
私が暇そうにしていると、祖母に緑の公園というところによく連れて行ってもらった。とくに何があるというわけでは無いが、花が好きな祖母に植わっている花の名前をたくさん教えてもらった。◯◯ちゃん、あれは何々やで、あれはな、あれはな……。

たまに畑の雑草取りを手伝って、と言われ手伝ったら、野蒜かなんだかを刈ってしまって「あらあ、これは食べられるやつやよぉ」と困ったように笑っていた。
近くの川にも連れて行ってもらったし、音楽村へも歩いて行ったことがある。お宮さんで、餅投げに一緒に参加したこともあるし(その時の祖母は強かった)、遠くまで散歩に行って心配かけたり、夜までテレビを見て怒られたこともある。

おばあちゃんという生き物は朝が早く、5時には目を覚まし、私のために朝ごはんを作ってくれていた。でも6時くらいにはできているものだから、私を起こすのは大体そのへんで、宵っ張りの私にはつらかった。
起きてみたら玉ねぎとワカメの味噌汁と、いつ炊いたのかきんない(黄色い)ご飯と、焼きたての卵焼きと、昨日淹れたままの出涸らしの緑茶と、近所の明治牛乳屋で買った牛乳、それとマルシンのハンバーグがでてきたものだ。味噌汁は何度も火にかけるから煮詰まって煮詰まって、九州人を母に持つ私の舌には塩辛く、ご飯と一緒にかきこんだ。そうすると少し薄まって玉ねぎのシャキシャキとした食感と、生わかめのおいしさが広がった。卵焼きもしょっからかったが、かためで美味しかった。出涸らしの緑茶は黄色く変色していたので、牛乳だけ飲んだ。瓶の牛乳は美味しかった。マルシンのハンバーグは、父方の家の常備食らしく、それがあれば子供は皆喜ぶと思っているらしかった。それがひどくわずらわしく、また愛おしかった。

散歩行ってくるわ。というと、必ず帽子を被せてくれた。「暑いから」と言って、お気に入りの帽子を被せてくれるのだ。「あら〜べっぴんさんやな」と送り出してくれる。その帽子を無くしたり落とさないように、私は無茶ができなくなる。
寒ければ祖母は自分の靴下や毛糸のチョッキを、雨ならば農作業用の長靴を貸してくれた。
私の生活の中には祖母は欠かせなかった。両親の前より笑顔だったことだろう。

祖父が亡くなってから祖母はごはんをあまり食べなくなった。居眠りも増えたし、爪も白癬で硬く分厚くなって、切っていなかった。髪もボサボサになり、あまり歯も磨けていないようだった。
外に出かけることも少なくなり、おしゃれにも気を遣わなくなった。
それでも私にだけはおじいさんの愚痴をよく話してくれた。体を悪くしてからのこと、もっと若い時ドライブに行った時のこと、病院へ通うのがいかに大変だったか。私はうん、うん、と聞いていた。

ある時夜中にトイレに立った祖母が転倒した。急いで駆けつけたが大事は無いようだった。でもそろそろ施設ね……という話になった。

借地であった祖父母の家は取り壊され、祖母は父方の一番上の姉が職員をしている介護施設に移った。その後は予後もよく、よく見舞いに行ってはおしゃべりをした。でもぬりえは「おっくう」だと言って白紙のページだらけであった。それでも長生きはした方だと思う。今月の3日に95歳の誕生日を迎えていたのだ。1929年生まれ。我々が調べている時代真っ只中だ。
戦時中の話もしてくれたことがある。自転車は高級品だったから、戦火の中押し入れに隠したのだと。名古屋に疎開に出て、肩身の狭い思いをしたと。箱のようなものに遺体が詰められて、手足が飛び出していたことを覚えていると。もっと、聞いておけばよかった。もう、聞けないなんて。

容態が急変したのは先月5月のことで、誤嚥性肺炎をして入院し、点滴に変えたと連絡が来た。
急いで休みを取り面会しに行き、少しうつろで痩せ細った祖母を目の前に一生懸命話しかけた。耳は元々遠かったが、大きな声で話せば会話はできる。誕生日プレゼントには花が欲しいと。季節の花が。だからまた来てね、と。

花は渡せなかった。

老衰なのはわかっている。
95歳、天寿をまっとうしているだろう。

苦しむことなく逝ったこともわかっている。

それでも大好きな祖母だったのだ。
両親よりも私を大切にしてくれる祖母だったのだ。
半分親代わりの祖母だったのだ。
悲しくないはずがない。

今日は通夜に参列するため帰郷する。

雨が、冷たい。


祖父が亡くなってしばらくして、夢に出てきたことがある。「◯◯、ばあさんは」と聞くので「あっちにみんなとおるよ」と言ったら「そうか」と嬉しそうに歩いて行った。祖父は、今度こそ祖母と会えただろうか。


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