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さるく

「さるく」——と言う言葉がある。長崎弁でぶらぶら歩くという意味だ。私は散歩をするだとか、歩きまわる、という言い回しよりもこの「さるく」を愛している。

私の母は長崎県の生まれで、今でも祖母は松浦市の海沿いに住んでいる。潮と魚の匂いが漂い、最寄りの電車は今でも一時間に一本の、小さな、小さな町だ。朝や夕に隣の島との連絡船があり、ボー。と汽笛が静かな港町に響き渡る。
「船の来たっちゃんね」
今年の10月14日で91歳になる祖母が言う。
「ゆみこばそろそろ向かえに来よらせんか」
「そうやね」私が掠れた声で答える。


祖母の長崎訛りを聞くと、“田舎に来た”と強く思わされる。正味、子供の頃はこのキツい訛りが苦手だった。怖いとすら思った。言葉の聞き取れない中、大人たちだけで話が進んでいくのが面白くなかったのだ。
上石津のおばあちゃんは「おばあちゃん」だったが、長崎のおばあちゃんは私の中で「おばあちゃん」になりきれなかった。母親の、母親。私とは、関係ない。遠い地の、あまり会うこともない老齢の女性……。
実際、数年単位でしか長崎には行けなかったし、数えるほどしか会っていない。今回の長崎行きも、肺がんの見つかった祖母の見舞いと誕生日祝いを兼ねてのもので、七年ぶりに実現した。その前に長崎へ行ったのは更に十年前。そんな数回しか会ったことのない、言葉のわからない人の前で、なにをしたらいいかなんて引っ込み思案の私はわからず、自然、さるいた。

黒曜石の採れる神社、カワハギの釣れる防波堤、幼くして死んでしまった母の兄が眠る墓地——

長崎のことはよく知らないが、松浦の……御厨のことはよく知っていた。松浦党という水軍がいたこと、司馬遼太郎の小説に出てくること、鯵や鯖が有名で、かまぼこがおいしいこと。路地には猫がたくさんいて、どの子もみんな人懐っこいこと。住んでいる人がみんな優しくて親切なこと。

誰に教えられたわけでもないが、松浦は自然と教えてくれた。さるく私にいろいろなことを。最近は「アジフライの聖地」になったらしい。

さて、日は遡り、叔母のゆみこさんが青島から船で御厨に来る2日前に、私は長崎の地に降り立った。長崎市だ。何回も長崎“県”へは来ていたのに、ハウステンボスには行ったのに、肝心の長崎“市”では一度もさるいたことはなかった。
余談だがさらに遡ると、6日から39度超えの高熱と咳を患い、水すら受け付けず、声も出ず、点滴や服薬を経て10日にやっと38度台まで下がり、11日に吸入器があれば固形物が食べられるようになったというむちゃくちゃな体調の中、この長崎行きは決行された。

12日、世の中は三連休。新大阪から博多へ向かう新幹線は満員御礼だ。博多からはいつもなら、有田—伊万里—御厨のルートなのだが、今回は博多—武雄温泉—長崎という、今まで行ったことないルートでの旅路に一抹の不安を抱きつつも、特急リレーかもめへ乗車した。鈍色の車体が格好いい。しばらく揺られ、武雄温泉駅で向かいのホームに停車中の九州新幹線かもめに乗車する。木の椅子!新幹線の概念が覆るゆったりとした設計に、九州の人への羨ましさが募る。

そして念願の長崎市へ。

先に宿へ荷物を置きに片道三十分の旅。思い描いていた長崎市より随分と小さく思える。右手に海、左手にはチンチン電車。あまり人のいない市街を、トンビが時折旋回している。たまに視界に映る異国情緒あふれる建物や遺構に少しそわそわしながらも、重い荷物を下ろさねば咳で酷使した肋骨が危ない、と宿へと急ぐ。補修中の旧英国大使館の真横にある、Googleマップにも載っていない大使館通りを抜けると、小さな道沿いに宿が見えた。この辺りではいちばん安いからとここにしたが、これは、なんとも、先程の不思議な大使館通りを抜けたとき、時代も国も超えてしまったのかもしれない。

ポルトガル様式の建築が素晴らしい

チェックインもできるとのとこで、部屋へ向かう。エレベーターの階数表示の針がジジ……と動く。明治村などの博物館でしか見たことのない表示だった。

身軽になった私は昼食も食べずに大浦天主堂とグラバー園へと歩を進めた。時刻はもう二時過ぎ、のんびりしていられない。今回の旅では、菊池寛の『文藝往来』を片手に、菊池寛と芥川龍之介の旅の痕跡を辿るという目的があったのだ。が、宿でバックパックを探った際、痛恨のミスをしていることに気がついた。——無いのだ。『文藝往来』が、どこにも。確かに出発直前に読んでいた。長崎への想いと、菊池、芥川両名への想いを高めていた。それがいけなかった。あろうことかリビングの机の上に置いてきてしまったのだ。しかしまだ慌てる時間じゃない、どこへ行ったかは覚えている。順番が前後すれど、目的は変わらない。今日の目的は大浦天主堂。それは変わらないのだ。

坂を上ると、大浦天主堂がそこにそびえていた。
秋晴れの空に映えるシアンの屋根……芥川も同じ天主堂を見たのだろうか……と、想いに耽る間も無く空腹が限界に。近くのカフェへ寄るも、時刻はすでに三時前。ランチメニューは終わりカフェメニューしか無いという。仕方なしに謎の中華料理店へ入り、ちゃんぽんを頼む。長崎無事到着の旨、母に連絡しようとしたところで圏外だと気づく。たった地下に一階分降りただけで!長崎シティよ、おまへの電波はどうなっている。

大浦天主堂は帰りに行こうと先にグラバー園へ。テレビや雑誌ではよく見たものだが、実際に見ると素晴らしい。貸衣装で園内を周れる館があったので、浮かれて三十分間のコースで周る。友人には大正浪漫の女探偵と言われた。宿に着いた時も「殺人事件が起きそう」と言っていた友人なので、彼は私を事件に巻き込みたくて仕方がないらしい。

女探偵

グラバー園を満喫していざ大浦天主堂へ……と思ったら閉館の時間らしく、入れなかった。グラバー園を満喫しすぎたのもあるが、病み上がり(病み上がってない)に坂道が思いのほか堪え、咳き込みながら休み休み周っていたのもあると思う。まあ、外から観れたし、明日、図書館や斎藤茂吉の歌碑や……と思いながら地元の百貨店へ。祖母への誕生日プレゼントだ。肋が痛むけれど、どうってことない、さるかっさる(お散歩)用のストールと、冬の展覧会でのおしゃれ用あったかストール。これらを見繕い、フードコートで夕食を済ませ、夜の長崎を……長崎を……ゴホッゴホッ、喘息由来の気管支炎が深い場所から咳を連れてくる。ゴホッゴホッゴホゴホ、止まらない、まずい、と吸入器を鞄から取り出している最中——ポキッ。嫌な音がした。全体にあった痛みが一箇所に集中する。ひとまず吸入器を使い、一度冷静になってみるが、咳をしても痛ければ、息をしても痛い。とにかく宿に戻らなければ、こんな遠くの地で倒れたら笑い話にもならない。歩くたびに響く痛みに脂汗を流しながら宿へ。シャワーくらいは浴びねばと湯を当てると痛む。烏の行水で風呂を済ませ、立っていられないと横になってみるが、痛む。じわじわと前日から痛みはあったため、痛み止めの湿布を先程の百貨店で買っていたことを思い出し、貼る。少し楽かもしれない。ゴホゴホ。痰に血が混じっていた気がした。

長崎二日目の朝は最低だった。結局痛みと咳で、一睡もできなかったのだ。朝早く起きて長崎の街をさるくつもりが、枕を背もたれにチェックアウトギリギリの十一時まで何もできなかった。
近くのオランダ坂だけは見ていこう、と坂をのぼる。途中で後悔したが、中々どうして侮れなかった。居留地にはロマンがある。


昼前、母親と合流。母は私の身を心配しつつも「大丈夫たい」と楽観的に笑っては出島に寄って平和公園へ向かうルートを示した。痛みは全く引いていなかったが、なんだかいっそ慣れてきていたため、それでいいよと返し出発した。
「出島なんて見るとこなかけん」と母は言っていたが、どうやら2018年ごろに大改装をやったらしく、立派な施設になっていた。陸続きらしかった正門前には堀ができ、出島らしさが強くなっていた。なので三十分もあれば充分やろ、と考えていた我々はいい意味で裏切られ、気づけば二時間たっぷり観光していた。

時刻は一時。二時前の新幹線でまた武雄温泉へ行き、そこから有田、伊万里、御厨と向かわねばならない。出島から平和公園までは路面電車で二十分も無いので、無理すれば外側だけでも見れるが……と悩みつつ、とりあえず路面を待つことにした。待っている間、地元のご婦人が話しかけてくれて「人の多かもんね〜」と路面に乗れない愚痴をおっしゃっていたので、ちょうどその頃ノーベル平和賞を原爆の団体が受賞したこともあり「ノーベル平和賞の影響ですかね」と振ってみたら
「そんなの関係なか!私地元の人間やけどね、原爆もなーんも。もうずっと昔に過ぎた事ったい」
とキッパリと言う姿勢に、昨夜メールした外国人の言葉を思い出していた。

「私たち外国人は、ナガサキは原爆のイメージ。だからもっと前に外国人がナガサキにいたことも知らなかったし、観光地だと思わなかった。でも写真見たらとても古くて歴史があるね。日本人にとってはナガサキは原爆よりグラバー園やそういう歴史の方が有名?」

うん、そうだよ。と即答できずに放置していたメールに、改めて「うん、そうだよ」と返しても良いかもしれない……と、そのご婦人の言い分を聞いてぼんやりと考えていると、後ろからチンチンチンチン、と例のあの音がした。我々は平和公園ではなく、長崎駅で降りることにした。

長崎駅から二時前出発の新幹線かもめで武雄温泉、武雄温泉で特急みどりに乗り換えて有田……有田から松浦鉄道で伊万里まで行き、また別の松浦鉄道で伊万里から御厨……時刻は四時半。降り立つ影は二つだけ。七年ぶりの長崎県松浦市御厨駅。歩いている人より猫の方が多い町——


そして冒頭に戻る。

当日は流石にどこにも出かけなかったが、翌日母の姉のゆみこさんが叔父と共にやってきた。久しぶり、いくつになったと?今はどぎゃん仕事しちょると?大阪はどうね、よかとこやけん楽しかろ。明日帰らす?土産ば持って帰ると?そげな鞄にはいらっせんやろ、袋持ってこよか?
楽しそうに話す叔母や叔父の話や、祖母の話を、何十年とかけて聞き取れるようになっていたことに一人感動を覚えてるなど、ここにいる誰も知らないのだろうなと照れ臭くなる。声が上手く出ないことがもどかしい。今ならいっぱい喋れるのに。
「そういや平戸ば行ったことなかね?」とおもむろに立ち上がり、叔母の車で平戸案内が始まった。平戸は一度行ったことがあるけれど平戸観光自体が目的ではなく、祖母の誕生日祝いのケーキを帰りしな購入することが目的だが、せっかく遠いところ来たのだからと、叔母が気を利かせてくれたのだ。

久々の平戸城に心躍らせるとなにやら様子がおかしい。ゲートがあるのだ。券売機で買ったチケットにQRコードがあり、それをかざすと「ピーーーー」っと甲高い電子音が鳴る。その時点で嫌な予感がした。
中へ入るといきなり壁面にプロジェクションマッピングが映し出され、階段はコンクリートのゴム張りに、展示は少なく、アトラクションのような、子供向けのレジャー施設になっていた。平戸城に泊まれる、とは聞いていたため、なんとなく「あの城で?」という疑念があったのだが、これはもはや城の形をした洋風建築だった。天守から見えた平戸大橋は、なんだか以前来た時よりくすんで見えた気がした。

石垣は変わらず好きです

そのあとは平戸ザビエル記念教会へ行って、軽い土産を買い松浦へと戻っていった。ホールのショートケーキがどこにもなかったため、チーズケーキとロールケーキを買って、焼肉パーティーをした。渡したプレゼントは照れているのか中々開けてくれなかったが、催促したら包み紙を破いて開いてくれた。ハイカラじゃんね、とちょっと嬉しそうだった。

最終日、朝から〽︎長崎は今日も雨だった。と、歌い出したくなるような雨模様。それでも変わらず汽笛はボー、と聞こえ、程なくして叔母がやってきた。
「有田まで送るったい」
もう長崎ともお別れか、と少し寂しくなった。次は何年後になるだろう。そのころ肺がんは大丈夫かな。心臓は大丈夫かな、考えることが色々あったし、色々言いたいこともあったけど、口をひらけば咳しか出てこない。これは本当に祖母孝行になっただろうかと自問する。有田まで約一時間、叔母が運転する車に祖母と、母と私。最後だからと何か喋りたくても少ししか声が出ない。一時間はあっという間で、すぐに駅に着いてしまった。「またね」何度も聞いている言葉。小さい頃は信じて疑わなかったが、父方の祖母の件もあり、またはちゃんと来るのかな。と少しばかり不安になる。なにせ今回が七年ぶり。松浦は、勤め人が気軽に行ける距離じゃないのだ。

「またね」

殆ど空気の漏れるような音で繰り返す。言葉にしたら、また会える気がした。そしたら今度は一緒にさるこう。おばあちゃんが何言ってるかわかるようになって、いっぱい話したいことがあるから。

——帰阪後、すぐに病院へ行きレントゲン。折れてはいなかったものの、肋骨にヒビ。無事に帰ってこれたのでよしとする。



追記:10月18日金曜日、痛み堪らず整形外科へ。
エコーでの検査の結果、骨折が認められた。新しい骨ができかけていたため、長崎にて折れたものと推測される。

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