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娘は「親と同じ」を要求する。大人と子どもの間に引かれた一線を感じず、育ったのか。
#20240628-426
2024年6月28日(金)
ノコ(娘小5)がソファーに寝そべり、大好きなTVを見ている。
やらねばならない宿題を終わらせたし、明日は休日。多少、就寝時刻が遅くなっても目をつぶろう。
私はソファーとTVの間に敷いた畳ラグの上に腹這いになる。
ノコに詰めるよう声を掛けて隣に座ってもいいが、私はTVを見たいわけでもない。体温の高いノコにべたりとくっつかれるのも勘弁だ。
梅雨入りしたここ数日、エアコンをつけたり消したりしている。今夜はまだ窓を開けるにとどまっているが、蒸し暑さはある。
ベッドに行って寝たいが、ノコを居間に残して先に寝るのは不安だ。
約束した時刻にTVを消すのかも。
窓を締め、全室消灯してから自室へ行くのかも。
怪しい。
Kindleを広げ、ライブラリから既読のコミックを開く。
ぼんやり眺めていると、いつのまにかノコが上から覗き込んでいた。
「ズルイ」
いったい何がズルイのだ。
私が私のお小遣いで購入したKindleで、私が購入したコミックを読んでいるだけだ。
「何がズルイの?」
首をひねってノコを見上げると、唇が不満そうにとんがっている。
「それ。私もほしいし」
理解し難いとはいえ、ノコはスマートフォンをはじめ、タブレット、Kindleなどの電子機器は見たいものがいくらでも無料で見られる宝のアイテムだと思っている。何度か説明を試みたが、途中で聞くのを諦めてしまう。
――わかんないし。どうせ持たせてもらえないし。
そういって私を睨むのだ。
せめて。
「いいなぁ」といえばいいのに。
言葉ひとつで印象が変わるのに。
ノコが口にする言葉は、どうも引っ掛かる。同情を引くというより、相手を咎め、非難する。
同じでない、と叫ぶ。
大人と子ども、その生きた年数、経験した量からして同じではない。
ノコは里子として我が家に委託された幼稚園年長児から、大人と子どもは同じだと思っている節があった。
大人と張り合い、同じようにできなければ怒る。負けん気とは違う。
たとえば、一緒にお絵描きや工作をする。
そりゃあ、色の塗り方、道具の扱い方、すべてにおいて幼稚園児とは違う。一応、私は美大を出ている。そうでなくとも、作ることは幼い頃から好きだし、工夫することも苦ではなく、むしろ楽しみだ。
ノコの前で全力で描いたり、作ったりするわけではないが、わざと下手に描いたり、手を抜いたりもできない。ごく普通にしているのだが、ノコは怒る。
「そんなふうに、できないもん!」
「ママばっか、ズルイ!」
「私がやんなくてもいいじゃん! ママがやれば!」
大人と同じになりたい時期もあると思う。
だが、大人の真似をしたいというのとも違うのだ。
親に安心安全をしっかり与えられた赤ちゃんは、親に「全能神」のような想いを抱く時期があると読んだことがある。空腹に泣いても、排泄の不快感に泣いても、眠いのに眠りに落ちれないもどかしさに泣いても、「どうしたの?」と現れてなんとかしてくれる。
自分を心地よく包み、あらゆるものから守ってくれる存在。
もし大人である今、そんな至れり尽くせりの存在がいたら、確かに「神」だと思うかもしれない。すべてを受け入れ、任せたくなるかもしれない。
神とは張り合わない。
神はむしろ何でもできて当たり前だ。
さすがに小学5年生。親に全能神を重ねる時期は過ぎているだろうが、ノコを見ていると、成長過程でそんな想いを抱いていた時期がなかったのではないかと思ってしまう。
親(大人)と子どもの違いを知らないまま、ただただ「同じ」でありたい、といい張る。
ノコの「ズルイ」には、それが透けて見える。
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