
機嫌よく過ごすため、不機嫌の芽を探す。
#20230901-222
2023年9月1日(月)
心と体は密接な関係だと思ってはいたが、日々の生活のなかで忘れていたようだ。
感情は何かがあって、生まれ、動くもの。その何かは体の外の出来事であり、外的要因が主だと思っていた。
今回、青山ゆみこさんと対話するなかで、不機嫌の要因は実は体の内にあったというエピソードが飛び出した。
機嫌が悪い理由は、「何か起きた」からだと外的要因ばかり探していたけれど、それは単に機嫌の悪さが大きくなるきっかけかもしれない。
不機嫌の芽は体の内にあり、それがそのまま育つ場合もあるし、外からの刺激つまり外的要因によってぐんと増幅することもある。
その芽は、大人になってもかなり乳児と変わらない原生的なものであることが多い。空腹や暑さ、寒さ、眠気、体調の悪さなど。そんなことで大の大人の気分が左右されるかと思うため、つい見落としてしまう。
自分自身のことだとまだ気付くことがある。
だが、第三者のことになると、途端、不機嫌の芽は自身でコントロールすべき範囲内だと思うせいか、体の内側に要因を探さず、外的要因を求めてしまう。
ノコ(娘小4)はよく不機嫌になる。怒る。
私は「何に怒っているのだろう」と外的要因を探してしまう。
学校で何か嫌なことがあったのだろうか。友だちと喧嘩したのだろうか。さっき注意したことがうるさかったのだろうか。
それらはノコの不機嫌さを刺激した要因であり、不機嫌の芽は実は体の内に既にあるのかもしれない。
本人は無自覚だが、空腹なのかもしれない。喉が渇いているのかもしれない。暑いのかもしれない。寒いのかもしれない。元気そうに飛び跳ねているが、眠いのかもしれない。今日着ている服の肌触りが微かに嫌なのかもしれない。
内的要因による不機嫌の芽があって、それを外的要因がつついて、大きくしているだけなのかもしれない。
里子であるノコは、幼稚園年長児で我が家に来た。
里親である私たち夫婦は実子がいない。子育ては、ノコがはじめてだ。
子育ての経験がないにしろ、ノコがもし乳児で我が家に来ていたら、泣くノコの様子をさわってさわって探ったことだろう。まだ喋れないノコに代わって、体のあちこちに触れて体温や汗の様子を感じることでノコの体の情報を蓄積していったと思う。
我が家に来たとき、ノコはもう一丁前に喋っていたため、つい言葉によるコミュニケーションに頼りきっていた。
語彙が少ないのは幼いから仕方がない。そう思いながら、言葉を複数並べて質問すれば、思い当たるものにはうなずくと思っていた。
「お腹が痛いの? どう痛いの? しくしく? ズキズキ? ズキンズキン? 食べられないくらい痛いの? 寒い? トイレは大丈夫?」
医者ではないのだから、触れてわかるものではないが、もっとノコの体に手で触れてなでながら声を掛けてもよかったのではないか。
成長するにつれ、ノコが自身の体の情報を蓄積していくだろうと思っていた。だが、まだ小学4年生だ。今からでも遅くない。私たち夫婦もノコに触れ、ノコの体の情報を収集していってもノコの体の情報をためられる。
ノコの体の情報を言語化して、ノコに返していく。
「暑いの? おでこに汗かいてるね。ほら、触ってごらん、ベトベトだよ。あ、背中も湿っているね。Tシャツを取り替えようか。さっぱりしよう。気持ちがいいね!」
こんなふうに触れて、感じたことをまめに言葉にして、ノコに伝えれば、ノコも次第にああこうだから気分が悪いんだな、と気付けるようになるかもしれない。
話せる子どもを育てることは、言葉によるコミュニケーションができるので楽な面もあるが、実はまだまだその言語能力は未熟ゆえ、体が発している情報も見落としてはならない。
子育てがはじめてだとどうしてもそこが疎かになる。
触れて触れてのスキンシップに慣れておらず、戸惑ってしまう。なんせ、よその子どもに触る習慣はないし、一緒に暮らしはじめたとはいえ里子がすぐ触らせてくれるとは限らない。
不機嫌なとき。
何かわかりやすい外的要因があったかもしれない。
でも、ちょっとだけ時間を巻き戻して、その少し前の自分の体の様子を振り返ってみる。既にちょっぴり機嫌が悪くなかったか。そこを更に突かれたから些細なことで怒ってしまったのではないか。
そこにすぐ気付けるようになったら、そこを改善できるようになったら、ちっぽけな外的要因にゆるがなくなるのかもしれない。
自分にとっての快適を求めれば、ご機嫌につながる。
不機嫌の芽は、単純でささいなもの。
そこに気を配れば、今よりご機嫌で過ごせるのかもしれない。
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