「うらやましさ」が怒りとなる。
#20240502-390
2024年5月2日(木)
インターホンがけたたましく鳴った。
17時5分前。隣接する公園へ遊びに行ったノコ(娘小5)が帰るには少し早い。
玄関ドアを開けると、ノコが飛び込んできた。
「ママママ、ママママ、学校のお約束って、5月になったら変わるの! 5月になったら5時半まで遊んでいいワケ!」
何をいっているのだろう。
日の短い冬期は16時半と早まるが、基本17時帰宅だ。17時半というのはない。
「変わってないよ。17時までだよ」
「じゃあ、どうしてッ!」
そう叫ぶと、ノコは公園へ走って行った。
17時になり、防災行政無線のスピーカーから音楽が流れだした。
インターホンが鳴った。玄関ドアを開けると、怒りの形相のノコが立っている。洗面所でガラガラペッペッとうがいと手洗いを済ましたノコは、怪獣よろしく荒々しい足音を立てて居間に出現した。
「ママ、学校に電話して先生に聞いてよッ!」
「もう5時過ぎたから学校に電話しても先生出ないよ」
「学校のお約束、見せて。本当に変わってないワケ!」
学校からのお便りを綴じているファイルを開き、ノコに見せる。
「ほら、変わってないでしょ。これ、4月の懇談会で配られた最新プリントだよ」
「あああああああ、アイツらの親にいってやりたい。アンタらの子ども、学校のルールを破ってますよって! そンなんで親としていいんですかッて!」
ノコの燃え盛る怒りはおさまらない。
宿題の音読をするために出してきた国語の教科書でテーブルをバシバシと叩く。
「ノコさんは、5時に帰ってきたね」
私は両腕を広げて、ノコを誘う。
「ママは、そんなノコさんをぎゅうしたいな」
ノコの返事は見事な睨み。
本日、ママのハグは無力のようだ。
私はノコに背を向けると、夕飯を作りはじめた。
「ああああああああああああああ!」
ノコの体からすさまじい怒りがあふれ出ている。
「どうしてウチは、ピッチピチなの!」
玉ねぎと人参を炒めていた私の頭のなかで跳ねる魚の姿が浮かんだ。
「ピッチピチというと、若くて活きがよくて、すごく新鮮な感じだけど」
「ビッチビチ! ビッチビチっていいたかったの!」
まな板の上で小さく身を躍らせていた魚がぐんと大きくなり、漁船の甲板で海に戻せと全力でもがいている。
「なんか釣られた大きな魚が暴れてる感じになった。厳しいことをいいたいのなら、ギチギチがいいと思うけど」
「あああああああああああああ、ウルサイウルサイウルサイ!」
ノコは激しく国語の教科書でテーブルを叩いた。
「なんでここのウチは! ダメなの!」
私は玉ねぎが透き通ってきたのを確かめ、フライパンにひき肉を入れた。
ノコは叩くだけでは物足りなくなったのか、教科書を折り曲げはじめた。今まで上下2巻にわかれていた国語の教科書が今年度から1冊になった。その分、厚さが増した。全体重をかけて、二つ折りにしようとしている。
私が物を雑に扱ったり、折り曲げたりするのを嫌がることをノコは知っている。
今、ノコはあえて私の気持ちを害することをしている。
――やめなさいッ!
――物は大切に扱って。物に当たらないで。
そう怒鳴りたくなるのを飲み込む。
ノコが好ましくない行為をしたとき、反応しないことも重要だ。ノコは私を怒らせたいだけと私は見ていない振りをする。
ノコ怪獣が吠える。
「ずるいッ! アイツら、ずる過ぎる! ルール破ってるのに先生に怒られないなんて!」
ガスを止め、深呼吸をしてから振り返る。
「ノコさんはママに学校のルールを破ってほしいの? 別に学校のお約束なんて守らなくていいわよ、5時半まで遊んでらっしゃいっていうママが好きなの?」
床に膝をつき、椅子に座っているノコと目線を合わせる。
「ママはほかの子が遊んでいても5時に帰ってくるノコさんが好きよ。いい子だから好きなんじゃない。何を守るべきなのかわかっていて、もっと遊びたいのに自分の心と戦って帰ってきたノコさんが誇らしいな」
ノコの目が左右に揺れる。
「もっと遊びたいよね。うらやましいよね」
ノコは遊びたいのだ。
遊んだら、学校の約束を破ることになるからできないけれど、とにかく遊びたいのだ。
自分がこんなにこんなに我慢しているのに、ノウテンキに遊んでいる友だちが憎らしいのだ。
家が公園の隣というのは、こういうときつくづく辛い。
子どもたちの甲高い声が否応なく聞こえてくる。日も延びて、今日のようなよく晴れた日の17時はまだまだ明るい。
ノコは椅子から下りると、両手を広げた。私の膝に座り、ぎゅうと抱きついてくると声を上げて泣きだした。
オンオンと外まで届きそうな大音量でノコは泣く。
私はノコの背をなでながら、その耳元でささやく。
「遊びたいよねぇ。もっと遊びたいよねぇ。うらやましいよねぇ」
こんなにも遊びたい気持ちが強いのもすごいもんだな、と笑ってしまう。