親にされてよかったことを娘にもしたくなる。私と娘は違うのに!
#20240622-422
2024年6月22日(土)
「ああああああああ!」
ノコ(娘小5)が洗面所で叫んでいる。
「面倒くさいッ! なんで、やんなきゃいけないわけッ!」
ドンドンと床を踏み鳴らす音が居間まで聞こえてくる。
してほしくない行為には、反応しない。地団駄を咎めたり、なぜやらねばならないのか説明すれば、火に油。さらにノコは荒れる。
やりたくないことは、なだめようが、すかそうが、とにかく嫌なのだ。
私の小学校時代と違い、今の小学校は習字道具や絵の具道具の後片付けを家庭でする。
小学校にも事情はあるのだろう。45分の授業を少しでも制作にあてたい。洗い場の蛇口が少なく、クラス全員が洗うとなると時間がかかる。配水管の詰まり。汚れた水まわりを掃除する手間。そんな感じだろうか。
私は団塊ジュニア、第二次ベビーブーム世代なので児童数は多かった。当時はどうしていたのだろうと首を傾げたくなるが、学校で洗うことに困った記憶はない。
嫌々洗うので、どうしても雑になる。
ノコが習字道具の硯、筆を洗った後の洗面所は正直見たくない。
クリーム色の壁紙には黒い水滴が飛び、白いシンクには幾重にも墨の輪ができている。触ったであろうレバーにも墨、ハンドソープの容器にも墨、そしてもちろんノコのタオルも黒く染まっている。よく見れば、床にも墨が飛び散っている。
後始末の掃除のためにメラミンスポンジを渡してあるが、使った様子がない。
「ちゃんとお掃除もした?」
「したッ!」
居間に戻ったノコが叫ぶ。
掃除をしたようにはとても見えないが、どうやら宿題をはじめたようだ。
今、ここで私が汚れたままの洗面所を指摘すれば、怒って宿題を投げ出すだろう。
――硯と筆は洗ったのだから、よしとしよう。
壁紙の汚れを拭き、ハンドソープの容器を洗い、レバーやシンクをこする。タオルは交換し、墨抜き剤を垂らす。
「後片付けまでがセットです」
よく母はそういった。何かをするとき、後片付けまでやってこそ、はじめてそれをしたといえるのだと。
そういうものか。バカ正直な私は、疑問も抱かなければ、ノコのように嫌がりもしなかった。やらねばならないのなら、どうすれば手早くきれいにできるか手順を考えた。
後片付けを通して、道具の構造や丁寧に扱うことを学んだように思う。
だが、ノコのように後片付けを面倒くさがり、投げやりになる子どもにはどうしたらいいのだろう。
後片付けを嫌がるあまり、習字、絵画そのものを嫌いになりかねない。
まずは楽しむことを優先し、後片付けは親がしたほうがいいのだろうか。
実際、親が後片付けをしたほうが洗面台を汚さずに済む。
やるよういえば睨んでくるノコに何度も声を掛けなくてもよい。
親が後片付けをするほうが親にとっていいことが多い。
それなのに、あえて後片付けまでやらせたくなるのは、母の「後片付けまでやってこそ、はじめてそれをしたことになる」という言葉が耳に残っているからだ。加えて、後片付けすることで、その作りや大切にする気持ちが芽生えた私の体験もある。
自分が受けた教育をノコにも同じようにしたくなるのは、今、私のなかでそれが活きているからだ。
厄介だなぁ・・・・・・
後片付けをすることで、私が習字も絵画も嫌いになったのなら、ノコにやらせないだろう。ただ制作を楽しむことを体験してほしくて、後片付けは私が担っただろう。
自分自身が親にされてよかったと思うことを子どもにもしてしまう。
ノコと私は違うのに。
面倒がる理由も、億劫がらない性格も、なにもかも違うのに。
まったくもって、子育てって難しい。