![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/162180924/rectangle_large_type_2_3511d463050bbfe1147e064ec2cad62f.png?width=1200)
『その「一言」が子どもの脳をダメにする』を読んで【読書感想文】
今回は、行きつけの本屋の新書売上ランキングコーナーみたいな場所に置かれていて気になり購入した本『その「一言」が子どもの脳をダメにする』の感想を述べる。昨今の時代、やはり私と同じく親子間に何らかの軋轢を抱えていて、それに悩まされる人も少なくないのだろうと思う。
最初に断っておくが、今回の内容は現状家族関係に特に不和不満のない生活を送っている人たちにとってはただ被害者意識が肥大化した人間の自分語りにしか思えないような節があるので、読み飛ばしてもらって構わない。かといって親子間の確執に悩む人たちにとっての処方箋になり得る訳でもない。今のところ、モヤモヤしてる心情のモヤモヤの濃度が高すぎて自分でもよくわからない。しかし、この人として軸がぶれているようなところに、実は大きな問題が潜んでいるのではないかというのがこの本を一読してみた私の感想である。
この本には子どもの脳にとって親のどんな行動が良い影響を与えるのか、また悪い影響を与えるのかが具体的に書かれているのだが、やっぱりというか案の定というか、私が子どもだった頃に親が為してきたことの殆どが悪例として紹介されていた。
まず著者によれば、子育てというものは産まれた直後に「心配:信頼=100:0」だった子どもを最終的に「心配:信頼=0:100」にして送り出すことだという。
私の親はとにかく私における信頼というものがなかった。もっと具体的に言えば、何かを決める時に私の一存で選択をさせることを頑なに拒んだ。
小中学生の頃は着る服や髪型などにいちいちケチをつけ、親の思い通りの姿に矯正させられた。年が経つにつれてそういう過干渉が緩和されるということもなく、大学生の頃なんかは親戚が美容院で働いているのをいいことに親が勝手に親戚に電話をして強制的に茶髪にされた。茶髪は嫌だという意思表明をたしか結構したはずだったのだが、学生のうちに茶髪にしないと勿体ない、人生で一度は茶髪を経験しておかないとダメだという染髪の亡者みたいな文言を散々並べ立てられ、気付いたら茶髪になっていた。美容院に行った時に断固として茶髪は嫌なので母親の注文は無視してくださいと言えれば良かったのだが、親戚という手前無駄に気を遣って言えず、下手に波風を立てるのも嫌だったので仕方なく真っ茶色に染められた。あと単純にもう何もかも面倒臭くなってしまったのもある。良くない。
実際に茶髪にしてみたら世界が変わった、ということもなく、当時周囲から多少驚きの声があったものの、1ヶ月ぐらい経って黒髪に戻したら大学の同期からは異口同音に「やっぱり黒髪の方がしっくりくる」と言われた。
大学に入学する前も、今のうちに訓練しとかないと後が困るからといってビールを無理矢理飲まされそうになったことがあった。私がいくら嫌がっても執拗に迫り続けてくるその姿はもはや狂気じみていて、なんでそんなことでここまでヒステリックになれるんだと思って本当に嫌だった。ビールを飲ませようとしてきたのは自分自身がどこまで酒に強いのかを今のうちに把握しておけば、いざ酒を飲む場になった時に周囲に迷惑をかけないで済むという理由からだったらしいが、本当に余計なお世話である。余計なお世話が多すぎる。
この余計なお世話ってヤツは、基本「子に失敗をさせたくない」という感情に由来している。それは「心配」でもあり、親は失敗を防ぐための予防策を万全に張ることに注力する。しかし、今回読んだ本には親の役目とは子どもの失敗を防ぐことではなく、失敗した後にどうしたらいいかを自力で考えさせ、適宜フォローすることだと書かれている。あらかじめ親が前もって失敗させないための道筋を子どもにすべて与えてしまうと、その子どもの前頭葉は育たずに自分の頭で何かを意思決定する、ということが困難になってしまう。この事象は私の脳を通して実証済みだから説得力がある。
私の前頭葉機能が死滅寸前まで追いやられた過干渉エピソードには枚挙に暇がないが、一番忘れられないのはやはり中学受験本番当日にウォークマンで『栄光の架橋』を無理矢理聴かせられたことである。
もう15年以上も前のことだが、当時私が通っていた塾のクラスでは受験本番の日が近づくと、士気を高めるためという名目で教室でゆずの『栄光の架橋』を聴いている時間があった。それが塾の保護者会かなんかを通して親にも伝わり、私の親もことある毎に家のオーディオ機器で『栄光の架橋』をかけるようになった。その時はまだそんなに頻繁にかけるわけでもなく、勉強を阻害されるほどのものではなかったので、私は本番に向けて変わらず淡々と受験勉強を続けていた。
しかし受験本番当日の2月1日の朝、ことは起こったのである。朝早く両親と共に志望校へ向かい、トイレやら何やらを済ませ、いよいよ試験時間開始直前となった時だ。集まってるのは小学6年生だから、当然他の受験生も両親と共に現地へ来ている人が多い。試験が始まる直前、がんばってね、絶対受かるよみたいな言葉を子どもにかけて両親と別れ教室へ入っていく子が多い中、私の母親はウォークマンを私の手に押しつけ、「これ聴いてから行きなさい」と『栄光の架橋』の再生画面を見せてきた。私は「もう時間ないし今まで散々聴いてきたからいい」というようなことを言って立ち去ろうとしたのだが、すると親がちょっとちょっと!待ちなさい!と喚き散らすので、その場に集まっていた受験生やその両親たちに何事かと注目され、ちょっとした衆目の的になってしまった。もうこれ以上下手に目立って心を掻き乱されたくなかったので、大人しくイヤホンをつけて『栄光の架橋』を聴いたのだが、その時イヤホンで音楽を聴いている受験生も私ぐらいしかおらず、結局目立ってしまっていたことに変わりはなかった。そうして落ち着きを失ってしまった私は、どうしても試験に集中することが出来ず、結局志望校に合格することは出来なかった。それを原因にするのは言い訳かもしれない。でも何より、不合格であることを知った後に家の布団の中で馬鹿みたいに泣いたのは試験に落ちた悲しみからではなく、こうやって親に管轄された人生を歩まなければ生きられない自分の存在って何なのだろうという悔しさと怒りと悲しみからだった。あの時親に架けられたのは栄光への橋なんかではなく、絶望へのデスロードだったのだ。
今思い出したけどこのエピソード前も書いた気がするな。もうこのnoteにおける古典落語みたいになってる、『栄光への架橋』かと思ったら『絶望へのデスロード』だったというオチもあり、志望校に落ちた、という意味でのオチ(落ち)もしっかりあるし。山田君、座布団二枚。
ちなみに一応書いておくが別にゆず自体に罪はない。
改めて子どもの脳はどうすれば成長するかという話題に戻るが、この本の著者によれば、たとえそれが自分の理想とする子どもの姿と異なっていたとしても(たとえば「ゲームやめなさい」とか「ちゃんと掃除しなさい」とか言いたくなったとしても)その何か言いたい気持ちをグッと堪え、一旦我慢して受け入れることが肝要だという。
子どもが勉強せずにゲームばかりしたり、昼寝ばかりしたりすることについて親がつべこべ口を出すのは得策ではない。たしかにゲームや昼寝をして宿題が出来なかったり、部屋が散らかったままになったりすることは良くないことかもしれない。しかしそれによって被る悪影響というのを本人もしっかり身をもって実感するはずであり、そこからどうするかというのは本人が決めて考えるべきことなのだ。そういう意味で、親はまず子を信頼するところから始めなければいけない。間違ったやり方をしていても、すぐに直そうとするのではなく見守ること。「心配」の度合いが強すぎる親は、それが出来ないから結果的に自分で何も考えられず意思決定できないような子を育ててしまう。最初から何でもお膳立てしてしまうというのは、子の思考力を奪うのと同義である。
親が子どもを信頼しないと、子どもの親に対する信頼も構築できません。「親から信頼されていない」というメッセージは、同時に「お前はダメな人間だ」というメッセージとして子どもに伝わります。
今までに何度、親から自分の意志を否定されてきたか知れない。自身の中に構築されたのは人生を上手く生きるための術ではなく、ただ親に対する不信感のみである。ある時は不登校になりかけて頬に平手打ちされ、「もうお前に飯を作る気はない」と言われたこともある。長くなってしまうのでその件について今回は詳しく書かないが。
私は個人的には、その選択をすることによって命の危険性が高まったり、詐欺関連の深刻な金銭トラブルが発生したりする場合でなければ基本的にすべての決定権は当の本人に委ねられるべきだと思う。それが自分の人生を生きるということだと思うから。
だからどうかこれを読んでいる子どものいる方々は、もちろん自分なりの譲れない教育方針というものはあるだろうけれど、子どもの現在の姿が理想の姿とかけ離れていても決して無理矢理に矯正することなく、価値観を押しつけることなく、温かく見守ってあげてください。
無理矢理茶髪にさせたりアルコールを摂取させたり『栄光の架橋』を聴かせたりするような行為は、今後一生黒髪で、飲み会嫌いで、ゆずのライブに行けなくなるような人間を誕生させます。子どもが茶髪にしたくないと言ったらそれを受け容れ、ビールを飲みたくないと言ったらそれも受け容れ、『栄光の架橋』を聴く気分じゃないと言ったらそれも受け容れてあげてください。そうすればいつかそのお子さんは自らの意志で茶髪にしたいと思うかもしれないし、誰よりもお酒に詳しくなるかもしれないし、自然とゆずのライブにも足繁く通うようになるかもしれません。
さもなくば心がどんどんどんどん捻じ曲がって、インターネットの片隅でこんな陰気な内容のことを書き連ねる人間になってしまいますのでね。
しかもさらに恐ろしいのが、私はこの文章を同期の結婚式が終わった直後に書いているということです。情緒どうなってんだよ。
おわり