この世すべての「負」の体現者
突然だが、このnoteアカウントには以前から書き溜めている下書きがいくつか存在する。
毎週時間の空いた時に続きを書こうと思うのだけど、ジムに行って筋トレをしたり昼寝をしたりピザポテトを食べたりしているうちに時間がなくなってしまい、もういいや来週書こう、ということになる。阿呆である。
人生においてもこういった「やりかけていたことを途中で放擲し、別のどうでもいいようなことに時間を浪費してしまう」という悪いケースが多々存在する。
急に謎の学習意欲に駆られて英語や歴史の勉強をしたくなり、本を買ったものの最初の3ページぐらいを読んで飽きてしまい結局一日中FANZAを視聴する、といった事例が後を絶たない(しかしそれにしてもこのnoteはFANZAが頻繁に登場しすぎである。無味乾燥な日常が過ぎていくのに対してFANZAだけが否応なしに生活に介入してくる、これはもうポルノ依存症に近い。もし読者諸兄がこういう状況に陥っていたとしたら速やかに然るべき医療機関にて診察を受けることをお薦めする。ちなみに筆者はFANZAをステルスマーケティングするDMMの回し者なのでポルノ依存症とは異なる、というのは筆者お得意の拙劣な冗談である)。
本なんかもひとつのものを一貫して読み通す集中力がないから複数のものを同時並行で読むことになる。だから違う本に似たようなことが書いてあると普通に混乱してしまう。やっぱり阿呆である。
最近自分がやはり病名のつく何かなんじゃないかと如実に思うようになってきた。傍から見たらドジで間抜けな行為を無意識にやってしまうことが多すぎる。
ジムで着替えてるときにシャツを裏表逆に着てしまったり、部屋で掃除機をかけている時に机の上に置いてあるコップの存在を忘れて肘で倒してしまったり、他に何もない場所で普通に肘を壁にぶつけたり(芸人の2700のように右肘左肘交互に見てほしかった訳ではない)、音楽をかけるとき令和の時代であるにも関わらず迂闊にもAKB48の『フライングゲット』を流してしまったり、電子レンジにかけておいた冷凍チキンの存在を忘却してコンビニでサラダチキンを買いに行ったりしてしまう。
これは不注意の類なので、注意して生きていれば改善できるのだろうが、忘れっぽいので大体の場合において「注意して生きていかなければならない」ということを忘れて生きている。それゆえに不注意由来の事故が起こり、「そうだ俺は注意しながらいきていかなければいけない側の人間だったんだ」と思い出し、そしてそれをまた忘れ、という地獄の無限ループが完成する。
全然学習しない。一丁前に英語や歴史を学習しようとか思う前にまず生き方を学習すべきなのである。
そんな訳なので、自己嫌悪に陥るのが日課という退廃的な毎日を送っているのだが、27歳独身実家暮らしというカルマを背負いながら生きているとそういう陰鬱な感情にさらに拍車をかけるような事態が発生する。
まず、父親がなにかと飯をこぼしたりモノを落としたりする。そういう光景を見るにつけ、こういう注意欠如と見られる行動は脳の何らかの良くない物質が引き起こすか、あるいは脳の稼働に必要な何らかのものが欠落していることに起因するものであり、筆者は父親のそういった脳内における悪性物質、または欠落を遺伝してこの世に産み落とされてしまったのではないだろうかという他責思考が沸々と募っていくのである。
それに加え、父親と母親の関係性は良好状態にあるとはとても言えず、緊迫感を伴った口論が2日に1回の割合で発生する。それは大体父親のそういった注意欠如に対する母親の糾弾から始まり、執拗に父親の非を責め立てる母親に辟易した父親が辛抱堪らず語気を荒げて反抗する、といった流れを繰り返すのであるが、その一部始終を虚ろな目で観察しているとこんなに相性の悪い父母から生まれた俺はどうせ不良品なんだと自覚せざるを得なくなってくる。
若干この言い回しには倫理性に問題があるかもしれないが、しかしどうしても一般的に健全と思われる夫婦円満な家庭の子と比較すれば、相互的に補完性を持たない(あるいは持とうとしない)父母の子は精神のどこかしらが歪曲してしまうというのは当事者として感じざるを得ない。逆に精神が歪曲していないとこんな怨嗟に満ちた陰湿な文章は書けないだろう。まあこれも完全なる他責思考に他ならない訳だが。
そういう訳で子供部屋おじさんを続けていると悲観的になる要素が多すぎるのでそろそろ独り暮らしをする準備に取り掛からなくてはいけないわけだが、こんな注意欠如の症状がある人間が独りで暮らせるのだろうか。
そもそも人間は何のために独り暮らしをするのだろうか。本当に独り暮らしを選択しなければいけないのだろうか。独り暮らしをするに足りうる正当な理由がそこには実在するのだろうか。
最近夜中に尿意を感じて目覚めることが多いのだが、トイレに行くときに「深夜にしか活動しない強盗が家の中に侵入して身を潜めてないだろうか、ベッドの下に潜り込んでないだろうか」ということが気になって全然スムーズに用を足せない。これはたぶん強迫性障害、不安障害かあるいは『水曜日のダウンタウン』の観すぎである。
実家暮らしでそんな有様なのだから果たして独り暮らしをした時に夜中トイレへ行けるのだろうか。もしかしたらオムツを装着して寝なければいけないかもしれない。でもオムツを装着して就寝したとしても、他人に口外しなければ27歳にしてオムツをしながら寝ているという機密事項を墓場まで持っていくことができる、というのが独り暮らしの利点でもある。
こんなことを延々と考えているからお前は万年子供部屋おじさんなんだよ、という声が聞こえてきそうである。その指摘は正しい。
しかし子供部屋おじさんという肩書を外すにも、会社との関係やその他諸々の複雑な事情が難解に絡み合い、容易に住居を変更することはほぼ不可能に近い。一回直談判的に独り暮らし希望の旨を親に伝えたことがあるが拒絶されたので、独り暮らしを開始するにはその障壁も乗り越えなければならない。
この家庭では往々にして、子の願望は親の意思によって形状を変えられるか、願望そのものを抹消されるのだ。この環境下で自由を手に入れるためには並々ならぬ意志、努力、知恵が必要であり、生憎筆者はどれも持ち合わせていないどころか生きるためのエネルギーを喪失してしまっているので床に臥せながら暮らすしかない。
とある本で読んだが、昔ある実験で、2頭の犬を用意し、両方とも首輪か何かで拘束をして、その首輪から電気ショックを与えるということを行ったそうだ(今では倫理的に許されないだろう)。その際、一方の犬の横には電流を止めるためのスイッチを配置しておき、もう一方の方には何も配置せずにおく。するともがき苦しむ一方の犬は頭を振り回すうちに横のスイッチを自然と押し、電流を止める。電流が止まったことに気付いた犬は、スイッチを押せば自分がそのショックの苦しみから解放されると理解する。だから徐々に電流が流れる度に条件反射的にスイッチを押すようになる。
対してもう一方の犬は、ただ電気ショックの苦しみに耐えるしかない。スイッチも何もないからなす術もなく、ただ流される電気ショックを受け続けるだけである。そして電気ショックを与えられ続けた犬が最終的にどうなるかというと、耐えられるストレスのキャパシティを超えて、何も感じなくなる。「無」になるのだ。感覚を捨て、「無」になった方がいいと学習するのだ。電気ショックを与えても、ただ微動だにせずずっと目を閉じて座っているだけになる。
ストレスから逃れられない環境下におかれると、「無」になるという傾向があるのはわかる。自分も最近はほぼ「無」であることが多い。禅的なポジティブな「無」ではない(「無」にポジティブもネガティブもないだろうが)。人が感動するような風景を見ても、舌鼓を打つような美味しい食べ物を食べてもほぼ何も感じない、無感動の「無」である。
知り合いが結婚したとか、そういう身内関係のホットなニュースがあると皆「え~
~っ!?」と過剰に反応するが、自分にとってはただの側面的な事実が新たに刻まれたのだという、歴史の更新でしかない。だから「ほ~ん」とか「は~ん」とか言って、リアクションが薄いと窘められる。
もしかしたらそういうニュースがあったときは過剰に反応することが円滑な世渡りをする上で求められる処世術なのかもしれないが、残念ながら自分の感情に嘘はつけない。いつしか心は摩耗し、感受性は擦り減っていくものなのだ。
前述した犬の実験の例に話を戻すが、この「無」を学習してしまったケースの厄介な点はなかなかその精神の修復が難しいというところにある。
ストレスを与えられ続け、許容量を超えてしまったらもう何も感じなくなるように「無」という防壁で精神を守るしかない。しかし「無」という防壁の恐ろしい点は、外部からのストレスを遮断するだけではなく、自らの精神の芯の部分までを徐々に浸食していってしまうことだ。
一度虚無に飲み込まれた精神は回復に時間を要する。回復に必要な精神力が「無」によって蝕まれていってしまっているからだ。だから一度壊れた心はなかなか元に戻らない。しかし変わらず心臓は物理的に血液を全身に送り出しているから、健康な肉体の中に不健康な精神を携えて生きていくしかない。
そしてこれが一番不条理な真実だが、大抵の場合、人は肉体が健康で精神が不健康な人間を見抜くことが出来ない。
だから人間を精神的に追い詰める人間は自分が人間を精神的に追い詰めているとは思わないし、追い詰められている人間は自分が追い詰められていることを自発的に発信しない限り、周囲に追い詰められていると思われない。その結果、SOSを出すことの出来なかった人たちによる自殺やうつ病が増加し、この世界はある特定の人口を対象に一部地域的に病んでいく。SOSを出せない理由としては先述した「無」によって気力や生きる意志を喪失してしまったか、SOSを出すことによって発生する人間関係の拗れや他人からの視線に疲弊しきってしまったということが挙げられるだろう。無論他にも理由はたくさんある。というか簡潔に説明できるような事情であれば、なかなかその極限状態まで追いつめられることはないだろう。もうそこまできたら心理療法の専門医を頼るしかない。
結局何が言いたいかというと、日曜日の夜は皆さん憂鬱だと思いますがAKB48の『フライングゲット』でも聴いて「ラブ・フラゲ~!」のところで「ラブ・フラゲって何だよ人生を楽観的に生きてる奴の脳内からしか発案されない単語だよそれは」という感慨を抱きながらともに眠りましょう、ということです。それが嫌だったら『365日の紙飛行機』でも聴いてください。
このnoteはすべての生きとし生ける、生き辛さを抱えた社会不適合者予備軍の方々のために書かれています。
ここまで読んでくださった読者諸賢の方々、大変感謝申し上げます。
商店街のガラガラ抽選会で特賞の『ミキプルーン』飲み放題セットが当選するのと同等ぐらいの幸福があなた方のもとに訪れることを、心から願っております。
真正の社会不適合者より。
おわり