読書記録。~両極端なわたし~
『死にたいけどトッポッキは食べたい』
ペク・セヒ・著
山口ミル・訳
光文社
韓国エッセイにハマったのは覚えているけれど、何を最初に読んだのだろう。
そう考えていると、この本にたどり着きました。
1年生の時、大きな書店で購入した1冊の韓国エッセイ。
すでにたくさんの韓国エッセイが販売されている中で、タイトルに惹かれて購入しました。
心が落ち着かず、どこか不安で、憂鬱。
そんな行き場のない感情を抱えた時、このカウンセリングの様子を読むと、先生の言葉1つ1つに「そっかそうなのか」と自分自身の状態に気がつき、そしてどこか安心します。
愛されたいのに、愛されようと行動できない。
本当は助けてほしいのに、助けなんて要らないかのように振る舞ってしまう。
過保護な環境に置かれれば不満で抜け出したくなるのに、
1人になれば何もできず右往左往。自分に何もしてあげられなくなる。
そんな両極端な気持ちや行動がつながっていることを、この本では何度も教えてくれます。
決めつけと孤立
私にないものを、周囲の人は持っている。
私が持っているものは決して大したものではない、皆それ以上持っている。
そんな思い込みがありました。
私はいつもいつも勉強に課題に追い込まれていて、本当につらい。
でもそれは周囲の人だって同じ。
まして周りの人たちは、サークルやアルバイトとうまく両立しながら勉強できている。
だから、私の境遇なんて全く大したことないんだから、むしろもっと勉強しないといけない。
そう思って、四六時中勉強する日々。
勉強すること自体はいいのだけれど、それによって自分を削り、禁欲的になり、いつしか楽しいことを考えることすら罪悪感を抱くようになりました。
これくらいの努力は、誰だってできる。
私は100%以上の力を使って、一般的に見ればやろうと思えばできる凡人程度の能力を何とか発揮し、
そして何とか大学で生き残っているに過ぎない。
その結果、自分がどんどんボロボロになっていくのはどうしてか。
自分が元々弱かったから。
それなのに、誰も私に援助してくれないし、私をハンデ付の人間として見てくれないのだから、
他の人より生きづらいのに他の人と同じように扱われる。
こうなっても当然だった。
地元の通院先の先生は、私に
「誰でも努力でがきるわけではない」と教えてくれました。
つまり、私ががむしゃらに勉強し続けてきた”頑張り”は決して誰でもできるものではない、凡人程度のものではない、ということなのだと思います。
私は私の持つ能力を過小評価していた、ということでしょうか。
できるかできないか、にとらわれ、少しでもできない部分があれば即時的に「ダメ」という烙印を押す。
そんな極端なところがあるのだと思います。
そうはいっても今更、どうすれば変えることができるのだろうか。
他人と比べる必要はないといくら言われても、いくら教わっても、心のどこかで人を羨むことがある。
そうやって嫉妬心に駆られて、焦るように勉強に追われ、努力し続け、自分に鞭打ってきた。
この本では、今の自分が過去の自分に、未来の自分が今の自分に、どのように語りかけるだろうかと想像を膨らませてくれる。
今の自分が高校時代の自分に会ったら、何を話せばいいのだろう。
「何が何でもダイエットにだけはのめり込むな」
「思い通りにいかないことがあっても耐えるしかない」
…厳しい言葉しか思い浮かびません。我ながら、過去の自分がかわいそうに思えてきます。
それでも、「1年生の時、なんとなく志望していた大学に行っている」と言えば、進路を土壇場で変更した高校3年生の夏より前の自分には響くかも。
今は過去の自分にどう語りかければいいか分からないけれど、そのうち分かるようになるかもしれない。
今は他者と比較して嫉妬や劣等感に苛まれることの方が多いけれど、いつかは自分を大事にできるかもしれない。
著者と一緒に、少しずつ、新しい経験を積み重ねていきたいと思えてくる先生のアドバイスでした。
目立ちたがり
いつも主人公でありたかった。
演劇でも主人公を演じたかったし、ダンスもセンターを進んで選んでいたけれど、舞台の上だけにはとどまらない程に私は目立ちたがり屋だった。
それは今でも同じかもしれないが、今は自分の能力を過小評価しているために自己主張はかなり減った。
それでも目立ちたい、という思いに変化はなく、ただ少しでも多くの人から注意の視線を浴びたくて、
私を見てくれた人にただ私の主張を聞いてほしいと思っている。
だから私はいつも、人と対話したり、多くの聴衆を前にしたりして自分の意見を言う場面を想像することが多いのだろうと思います。
そのために自分を卑下し、弱く見せ、
ほら、こんなに可愛そうな、不幸な人がここにいるのだから、見ていないで助けてよ、と。
でも大抵は見て見ぬ振りされるか、気づいてもらえないかで気にも留められず。ひとたび助けてもらえても、完全に回復する前に助けは途絶えてしまうことも。
少しでも視線を逸らされると、「あっ、私のことはもうどうでもいいんだな」と。だから著者の考えに、極端と分かっていながらも共感でいっぱいになります。
さっきまでずっと私と話してくれたのに、どうしてあの子の所にいって私の時よりも盛り上がっているのだろう。
私と一緒にいても面白くないから?つまり私と話すことに価値はないということ?
そう。舞台に立っていないと、私は誰からも見てもらえないと思っている。
そんな自分に気がつきました。
今まで助けてくれた人たちの支えを忘れただなんて思いたくない。
だからといって長期的に支援を継続してほしい、とまでは申し訳なくて言えないけれど、
今はせめて、日々ほんの少しだけ、助けとなってくれる存在が身近にいてほしい。
そう思います。
成功体験を積みたいと思ったけれど
先生は語りました。
私は拒食症になって、食べられるものが一気に減ったとき、
そうしたものを克服しようとして成功体験を積もうとしました。
でも、とにかく失敗が怖かった。
もし美味しく食べられず後悔したら、もう二度とそれを食べられなくなるかも。
もしここでたくさん食べてしまったら、私は過食症になってしまうかも。
代償行為に走ったら、もう治らないかもしれない…
そうなりたくないから、色々なものに挑戦しつつも、その挑戦自体を避けるようになっていきました。
そんな私に、失敗さえも力になってくれるとこの本の先生は語ります。
失敗体験を積み重ねてもいい、と。
食べたはいいけれどバターが効いていて、食べながら怖くなったとして。
「こんなハイカロリーなもの、次は選ばない」ではなく、
「悔しいから次食べるときはもっと美味しいものを食べよう」と思えるだろうか?
昔は食べられなかった卵や豚肉、牛肉、ホテルで出された天ぷらやビーフシチュー、ビュッフェで取ったゴーヤチャンプルーや麻婆豆腐に至るまで。
食べられなかった経験がありながら、今では昔よりもおいしく食べることができている。
だから「いつかもっと美味しく食べられる時が来るのかも」という感じで、
食べられなかった経験も「仕方ない」で捉えられるようになれば、と思います。
この本はいつだって、共感させてくれるし励ましてくれる。
著者と一緒に、少しずつ前向きに進んでいけたらいいなと思わせてくれる。
そんな一冊でした。