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【連載】#2 厨房のイジメから学んだこと|唯一無二の「出張料理人」が説く「競わない生き方」

職業「店を持たない、出張料理人」、料理は出張先の素材を最大限に生かしたオンリーワンのレシピを考案して提供する――。本連載は、そんな唯一無二の出張料理人・小暮剛さんが、今までの人生で培ってきた経験や知恵から導き出した「競わない生き方」の思考法&実践法を提示。人生を歩むなかで、比べず、競わず、自由かつ創造的に生きていくためのヒントが得られる内容になっています。

※本連載は、毎週日曜日更新となります。
※当面の間、無料公開ですが、予告なしで有料記事になる場合がありますのでご了承ください。

私は、中学生のときに見ていた料理番組「料理天国」の影響で、フランス料理に憧れ、遠回りかもしれないですが、大学まで行って経営とフランス語を学び、その後、料理天国に出演されていた、大阪あべの辻調理師専門学校(辻調)の先生方にフランス料理を習おうと、14歳のときに決めました。

なにしろ、私のまわりに、飲食関係の人はいなかったので、誰にも相談できずに、取り寄せた辻調のパンフレットに書かれていた辻静雄校長先生のメッセージだけを頼りに、自分なりに漠然とそんな人生設計を立てました。

私は、何をやるにも鈍臭くて不器用ですが、一度決めたことを少しずつ、コツコツやることは好きでしたので、何とか大学を卒業し、初めての大阪、念願の辻調に行くことになりました。

辻調では、ひとクラスに100人ぐらいの全国から集まった料理人の卵がいて、よく見渡すと、4年制の大学を卒業しているのは、私一人だけでした。ほとんどが高卒で、中卒の人も数人いました。つまり、私以外は、みんな年下ということで、4歳から7歳若い仲間たちと一緒に、1年間料理の勉強をしました。

辻調では、料理天国で見て憧れていた先生方からも料理を習いましたし、普段は、一流レストランでシェフをしている方々からも教えを受け、毎日が新鮮で、とても楽しいものでした。授業中にわからないことは、授業後に質問すれば、何でも丁寧に教えていただけました。

辻調在学中、フランス修行の夢もさらに膨らみましたが、1985年当時のフランスは、ミッテラン大統領のもと、失業率が高かったために、外国人労働者の締め出しがキツく、我々がフランスで働きたくても、労働許可証を簡単におりない状況でした。そこで、フランス・リヨンにある辻調のフランス校に行くことに決めました。フランス校であれば、1年間の滞在許可証がおりたからです。

フランスに行った最初の半年は、フランス校でさまざまな一流シェフの高度な技術を学び、残りの半年をリヨンのレストランで研修することができました。私は、フランス料理の神様、ポールボキューズ氏も修行したことのある「レストラン、メールブラジエ」で研修する機会に恵まれました。このレストランはかつての3つ星レストランで、美食の殿堂としての輝かしい歴史があります。厨房には石炭ストーブもあり、ここで、毎日すばらしい料理がつくられていました。

仕事はかなりハードでしたが、たくさんいる料理人が肉、魚、野菜等のチームに分かれ、それぞれのポジションで、とても機能的に効率よく動いていました。私はまず、野菜チームの一番下のポジションに入りました。いろいろ学ぶことができたのですが、なかでも印象的だったのは、チーム制の仕組みでした。私がミスをすると、私が怒られるのでなく、私に指導した私の上の人が指導力不足と怒られるという仕組みだったのです。そのため、上の人は隠すことなく、何でも丁寧に教えてくれました。後述しますが、日本とは全く逆のシステムで、フランス式の教え方はみんなで教え合うことになるため、厨房全体のレベルアップにつながることを学ぶことができました。

充実したフランス修行が終わり、意気揚々と帰国したのですが、この後、まさかの地獄の展開が待っていました。日比谷のフレンチレストランを皮切りに、都内や千葉の数店舗で修行したのですが、行く先々で陰湿なイジメに遭ったのです。

辻調でも、私以外は高卒か中卒ばかりで、4年制の大学卒は珍しかったわけですが、帰国後の日本のレストランの調理場にいた先輩方は、いわゆる中卒の落ちこぼれで「お前、アホだからコック(水商売)にでもなれや」的な、チンピラの集団のようで、ストレスの塊のような空気感でした。そんな状況の中に、私みたいな学歴エリートが入れば、それは、明らかに嫉妬、妬みの対象、ストレス解消の餌食になります。

初日から浴びせられる罵声、嫌がらせは、私の常識をはるかに超える酷さでした。いつまでも続く、皿洗い、鍋洗い。まともな仕事は、何ひとつやらせてもらえません。一番情けなかったのは、私に当てつけるように、先輩たちは、私のあとから入ってきた中卒の見習いには仕事を教えて、いろいろやらせてあげるのです。
このときばかりは、「履歴書はまともに書くものじゃないな。オレも、中卒、未経験って書けばよかったな」と思い悩んだものです。今思うと、異常な感覚です。本来、履歴書は自分のスキルやキャリアをアピールするもののはずなのに、できるだけアピールしない形がいいと考えていたわけですから。
そんななか、ようやくやらせてもらった仕事が「賄いづくり」です。一人当たり200円ぐらいの予算でつくらされ、それがマズイと、ボロクソに言われます。テーブルをひっくり返されたこともありました。

イジメのツラさを書くのはこのぐらいにしておきますが、私が独立して彼らと疎遠になってから約20年後、あることがきっかけで、彼らと再び接点を持つことになります。
そのきっかけは、私のTBS「情熱大陸」の出演でした。

散々私をふみ潰した、声も聞きたくない先輩から、どこで調べたのか、まさかの電話が来たのです。「お前も、立派になったな。オレはうれしいよ」と……。正直、笑いたくなるような出来事でしたが、だいたいイジメって、イジメられたほうは、深く傷つき一生忘れないですが、イジメたほうは、覚えていないものなのかもしれません。

私は、このとき思いました。「オレは、先輩を超えた」と。そして、「だけど、あの頃、散々ツラい思いをしたから、それを乗り越えるだけの力をつけた今の自分がいるんだ」と同時に思いました。それからさらに数年後、また、私を散々イジメた、別の先輩からも電話がありました。「お前も、ずいぶん偉くなったなぁ。オレは今、仕事がなくて、田舎にいるんだ。悪いけど、仕事を紹介してくれないか?」と。もちろん、私は喜んで、飲食関係の仕事を紹介させていただきました。

ここで、みなさんにお伝えしたいことが、いくつかあります。

もし、あなたが、今、イジメが酷い状況にいるのなら、すぐに逃げ出してください。あなたをイジメてる人は、どうせイジメてることをのちのち忘れるんですから、真正面からそんなイジメを受け取ることはありません。
もうひとつ。できれば、誰でもイジメは受けたくないですが、イジメを受けた分、あなたは、人に優しくできる力を持っています。やられたら、やり返すではなく、反面教師と思えば、あなたの人間力はアップして、運気も良くなりますよ。

なぜかって?
それは、私が経験していることだからです。

【著者プロフィール】
小暮 剛(こぐれ・つよし)
出張料理人。料理研究家。オリーブオイルソムリエ。1961年、千葉県船橋市生まれ。明治学院大学経済学部卒業後、辻調理師専門学校を首席で卒業。渡仏し、リヨンの有名店「メール・ブラジエ」で修業。帰国後、「南部亭」「KIHACHI」「SELAN」にて研鑽を積み、1991年よりフリーの料理人として活動開始。以後、日本全国、海外95カ国以上で腕をふるう「出張料理人」として注目される。その土地の食材を豊富に使い、和洋テイストを融合させて、シンプルに素材の持ち味を生かす「小暮流料理マジック」に、国内のみならず世界中から注目が集めている。近年は、出張料理人として活躍しながら、地域食材を最大限に生かしたレシピ開発を通じた地方再生や、子どもたちの食育講座などを積極的に行なっている。また、日本におけるオリーブオイルの第一人者としても知られ、2005年には、オリーブオイルの本場・イタリア・シシリアで日本人初の「オリーブオイルソムリエ」の称号を授与している。その唯一無二の活躍ぶりは各メディアでも多く取り上げられており、TBS系「情熱大陸」「クレイジージャーニー」への出演歴も持つ。最終的な夢は、「食を通して世界平和を!」。

▼本連載「唯一無二の『出張料理人』が説く『競わない生き方』」は、下記のサイトで過去回から最新話まですべて読めます。


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