文語訳の聖書
ちいさい頃、日曜学校で好きな聖句をきかれた。他の子たちはなんと答えたのだろう。わたしの夫になるひともその中にいた。多分みな、『神は愛です』くらいの単純なことを答えたのだと思う。いま聞いたって夫も覚えてはいまい。
順番が巡ってきたときに、わたしが答えたのはこれだった、
『受くるより与うるほうが幸いなり』
小学二年生の口から飛び出した文語訳に、牧師先生は可笑しさを堪えるような何ともいえない表情だった。
あれには裏があって、あの句は妹尾河童の『少年H』で引用されていて、そこで覚えたのだった。だけれども小学二年生にそこまでの説明はできなかったから、きっと牧師先生はこの子はどうして文語訳の聖書なんか読んでいるのだろうと不思議だったことだろう。
文語訳の聖書は、その後だれかから頂いて家の本棚に並ぶようになり、わたしも翻訳なんかをしていたころに、参照のためによく括ったものである。読みやすくはないし、だいたいわからないけれど、ただことばが美しくて好きだった。
だから嬉しかった。このあいだ買った『詩歌の森へ』というエッセイ集で、この文語訳の聖書の一片が紹介されていて (それは雅歌だった) 、訳したひとのひとりとして曾祖父の伯父の名が出ていたのは。受くるより与うるほうが......が一周してカタがついたような。
わたしはそれが誇らしいのだけれど、それは自慢ではない。ニッキでもカトリックでもなく、だいたい日本人がほとんどいない教会に通うわたしに、それを自慢にできるような文脈はない。自慢したいのならわたしなど滅びたほうがいい。
そうじゃなくて、わたしは嬉しいのだ。じぶんの後ろにも、神を愛したひとたちがいることが。胸がじわじわとひくい熱に沸くように、その遺産はわたしを支えてくれるのだ。パウロがそう言っていたように、彼らがあちら側で、わたしを応援してくれているのを感じるから。
「愛すること、祈ること、賛美すること」とわたしに言い遺して、祖母は去年あちらに帰っていった。彼女とその先祖たちは、いまあちら側で、こちらにいるわたしが持てるすべてをかけて神のために走ることへ、望みをかけている。わたし無しには彼らは完全となりえない。そうパウロが言っている。
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