シンセアな歌を (短歌と反省)
やへむぐら古き軒端は削られて
「最大料金あり」の看板
海の辺におほきなアガベ、
ローズマリ、乳母車押すわれを慰む
ゆふがたのバス待つ列にふと聞こゆ
をとこ漏らせしかすかなる歌
この胸のすぐ上に彼のひと感じ
語れるやうにうたふ讃美歌
『子は一人?』『ひとりですよ』
と云ひながらつたなき歌を次々と産む
さいきん読んでいるもの、
『窪田空穂歌集』
『斎藤茂吉歌集』
『明石海人歌集』
『百人一首(角川文庫)』
『土を眺めて』(窪田空穂)
『翡翠』(片山廣子)
すこしずつ短歌を学びながら、冷静にじぶんをみられるようになってきた。わたしの拙い、拙い歌。足掻いているような、不器用な歌を。
すべてをうっちゃってしまいたい、と読み返して、良いと思えたのはひとつかふたつ位であったけれど、それでも誠実に、そのときの葛藤を歌にできているものは、じぶんの足跡としての価値だけはあった。
わたしは聖書とキリストを信じていて、周りに良い友人たちもいるから、なにが正しいことなのか、キリストならどうするのか、ということを頭では知っているつもりだ。
けれど頭で知っている知識と、こころで知っている知識は違う。例えば、『敵を愛しなさい、あなたを悪用するひとに親切にし、そのひとのために生きなさい』という言葉を、ほんとうにこころで知り、生きるためには、わたしはもっと陶器師の手のなかでくるしみ、かたちづくられなくてはならない。
その葛藤を、漆喰で塗りこめてしまうなら、それはわたしにとって偽善だ。起承転結のためのような歌は、あとからでも削除している。わたしは神との歩みにおいて、誠実でありたい。『宗教』のような歌は詠みたくない。答えというのは、押し付けられるものではなくて、内側から生まれてくるものだ。そういう意味で、わたしはいままでじぶんが作ったものを反省している。
わたしはシンセアに生きたい。そしてそれを歌にしたい。
小説を一冊本にして、これは続けていけない、と思った。小説は、生活を破壊してしまう。歌ならば、わたしに与えられた役目を果たしながら、続けていけそうである。なんであれ、わたしはじぶんの与えられたちっぽけなタラントを、神のために用いたい。キリストと生きる現実を、ことばにしてみたい。
頭で知っていることではなく、こころで知っていることだけを、歌に出来るように、イエスさま、どうぞ助けてください。