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本の虫12ヶ月 10月




速読の乱読家の自家用記録。


↓先月の分




「傷を愛せるか」
宮地尚子

よみなおす。
考えていることを、そこに
見いだすみたいに、読んだ。


「私のカトリック少女時代」
 メアリー・マッカーシー

それでこの本のどこに、
キリストが出て来るんだね?
出て来ないから、
こういう本になっているのか。
わたしの曾祖母が、百数十年前に
プロテスタントの女学校に通っていた。
卒業したばかりの彼女に、
宣教師の先生から送られてきた手紙には、
Know the Person of Christ
と書いてあった。
キリストというひとを知れ。

(訂正 大伯父の手書きの筆記体を
読み直してみたら、そこには
Know the power of Christ
と書いてあった。
フェリス女学校のミス・カイパーが
曾祖母に宛てた手紙。
ミス・カイパーは関東大震災で焼死した)

この著者や須賀敦子さんが通った、
聖心系の学校がどんなところだったか知らんが。
この本を愛読していたという須賀さんが、
なぜカトリックを捨てなかったかについて
書いている文章を読んだ。
それで気になって、この本を読んでみたのだ。
でもこの本は、カトリック批判にしては
お粗末なような気がした。
この少女が惹かれていたカトリックは、
飾り立てた装飾みたいなものじゃないか。
それに言い返す神父さまもだいぶお粗末だったが。
わたしにも、カトリック少女時代がある。
6歳までは、毎週ミサに通っていた。
母がプロテスタントになるといって、
神父さまに破門されたときも、
同席していた記憶がある。



「終わりと始まり」
池澤夏樹

かれを手に取ったのは、
わたしが好きな本の後書きを、
いつもかれが書いていたから。
(須賀敦子、藤本和子、石牟礼道子など)
新聞に書いていたコラムを集めた本。時代は
2000年代から原発事故あたりくらい。
エネルギー問題や、政治家のこと。

この世界の仕組みはとうに破綻していて、
それに蓋をして無感覚に生きるか、
なんとか延命処置を施そうとするか、
革命でも起こそうとするか。
それとも書くひとの義務として、
希望のうたでもうたってみるか。
希望のうたをうたうには、
希望を持っていなくてはならない。
霧みたいな希望に
すがりつくわけにはいかないから。
それは不誠実っていうものでしょう。
希望の実質を、持っていなくては。



「2022年のモスクワで反戦を訴える」
マリーナ・オフシャンニコワ

カバー写真でわかる、あのひとの本。
裸の王様を裸だと言ったことで、
彼女が支払った代償。
そしてこのSNS時代に、四方八方から
非難され、中傷される立場に立つこと。
ロシアから、そしてウクライナから。
母から、元夫から、息子から。
かのじょをわたしも、硝子の画面越しに
みていた。かのじょを貶める記事も、
賛美する記事も、ウクライナに取材にいくことも、
フランスに亡命したことも。
あなたの口から、話を聞けてよかった。
どうか神さまが、あなたの勇気に
報いてくださいますように。


「文学キョーダイ!!」
奈倉有里
逢坂冬馬

かれらの家庭について、
のはなしがとても面白かった。
このふたりのおすすめ図書も。

本はこの世の解決策にはならないでしょうね。
対談は途中で、この破綻してゆく世界の
はなしになっていく。それにたいしてこのすてきな
文学姉弟たちが、じぶんたちの出来ることについて
語っていく。本のこと、文学のこと。
そのはなしは、いつのまにか本が救い主みたいに
ふわりと上げられてしまって、
かれらの誠実さは疑うべくもないにせよ、
なんだか無力なかんじがしてしまう。
本を読めるひともいれば、読めないひともおり、
そして読まないひともいる。
本を読むことのちからを、
わたしたちは知っているけど、
きっと毎日ランニングするひとも、
山登りするひとも、旅をするひとも、
おんなじようなことを思ってるに違いない。
文学は、唯一の道ではないだろう。

あるひとに言われて、はっとしたコトバ。
「アナタの家族は、本を読んだりして、
みんなアタマの良いひとたちネ。
でも、みんながそうじゃないからネ」

きっと本の外にも、世界は拡がっていて、
そこにもたくさんの「本」がある。
わたしは本の虫だから、紙の本しか知らん。


「生きるための選択」
パク・ヨンミ

わたしのひとつ年上の女性の手記。
脱北し、中国で搾取され、
モンゴルを経由して、
韓国に渡ったひと。
「脱北し」そしてそれから
中国で起きたことを、書く、
とかのじょが決めたこと。
書かなければ、伝わらないし、顔を隠せば、
そのことばにひとびとが
耳を傾けてくれないのでしょう。
でも、ひとりの女のひとが、
そんなことを書かなくてはならなかったことは辛い。
虎と翼で、原爆裁判のときに、
よねさんが被爆した女性に
語っていたことを思いだす。
よねさんのことば、引用してみる。

「声を上げた女にこの社会は
容赦なく石を投げてくる。
傷つかないなんて無理だ。
だからこそ、
せめて心から納得して
自分で決めた選択でなければ」

このひとは、じぶんで選んだのだ。
そしてあの、ロシアのテレビ局のひとも。
けれど「傷つかないなんて無理だ」
彼女たちふたりとも、ジョージ・オーウェルを
読んでいたことに気づく。
いま動物農場を読み返しているんだけど、
1984年は未読。


夜と霧
ヴィクトール・フランクル

「わたしは感謝しているの、
こんなに酷い目に合わせていただいたこと」
「何不自由ない暮らしをしていたときは、
わたしは甘やかされて、精神のことなんて
なにも考えていなかったもの」
そして、マロニエの木に語りかけられる少女。
「わたしはここにいるよ、わたしは、永遠の命」

ほんとうに生きる意味について。
まっすぐに、すべてを通り越して、
見つめてみたときに、わかること。
「わたしはじぶんが苦悩に値しない人間になるのが恐ろしい」とドストエフスキーが言ったんですってね。
カラマーゾフしか読んでないから知りませんけど。
キリストのようになること、
というのは、キリストの苦しみを共にすることじゃないのかしら。楽しいことしか共有していない友だちは、一緒に苦しんだ友だちのようではない。キリストとひとつになるために、苦しみというのは、わたしたちに与えられた恩寵なんじゃないのかしら。
ヴェイユでも読み返そうかなあ。


Supernatural
The Life of William Branham
Book one 
The boy and His Depriviation

十代の頃、覚えたての英語で読んだときには、
理解できなかった。どうして、にんげんがこんなに
苦しまないといけないのか。神の呼び声に答えるまで、追い詰められるように苦しめられる、というならまだ分かった。でも神の呼び声にしたがって、神に導かれながら歩き始めても、ずっとずっと死ぬまで苦しめられるのはなんでなのか。どうして「めでたし、めでたし」と言わせてもらえないのか。生きているあいだはずっと、苦しみと祝福のあいまを生きないといけないのか。

使徒パウロは神から「このひとはわたしに従うひとがどう苦しまないといけないかを心底味わうようになる」と言われた。ウィリアム・ブランハムの生涯をみていても、同じような気持ちになる。ほんとうに神に呼ばれるということが、どういうことなのか、ちゃんとわたしたちは理解していないのだ。

有名な説教師たちは、フェラーリを乗りまわして、
プライベートジェットで飛んで、フロリダに別荘を持っている。それが成功ということ。神に賜物をいただいて、神に祝福される。キリストによって、おれの人生はめでたし、めでたし、という価値観が、あの頃まだわたしから抜けきっていなかった。お付きのひとが付いてくる人気予言者なんかを、見たことだってある。
だけれどもう騙されない。

うわべを見ていてはいけないのです。
苦しみによってしか得られない謙虚さが、
にんげんを堕落から守るのです。
ほんとうに、ほんとうに、ダビデが呼ばれたように、
神に呼ばれるというのは、そういうことなのです。
キリストと苦しむこと。
サウルのように呼ばれたいひとは、
放っておけばよいのです。


犬が星見た ロシア旅行
武田百合子

ゆりこさぁん。わたしは彼女が書く
食べたもののメニューが、
リアリスティックで美味しそう、
と思うんだけどな。
ゆりこさんのことを、
フェミニストはどう思っているわけ? 
武田夫婦のこの一発触発、男尊女卑、
しかし百合子さんの圧倒的な生命力に
負ける泰淳、みたいな、
複雑なこの関係は。
わたしが好きなのは、
百合子さんがサーカスみたいに運転して、
そのとなりで息を詰めていた
泰淳の描写(富士日記)だなあ。
動物農場を読みながら読むと、
なんだかこのロシア、
ぞわぞわしておもしろい。

「北欧はいかがです? 
モスクワよりよいでしょう?
おなじ海外赴任でもパリやロンドンの方が
羨ましゅうございますわ」
と上品にのたまう駐在夫人に、
いいや、中央アジアの街がよかった、
前世はそこで住んでたんじゃないかとおもう、
と考える、その百合子さんが好き。

書かれている日常は昭和なのに、
百合子さんの言葉を通すと、
あたらしいようなきになる。


風と共に去りぬ 3
荒このみ訳(岩波文庫)

解説がおもしろいよね。風と共に去りぬの
解説で、ネイティブアメリカンの苦難と、
トレイルオブティアーズの話をするような時代
になるとはね。政治的には正しくあらねば
なりませんものね。いや、皮肉だけではなく、
こういう風去りも面白いとおもう。
時代をアップデートしていくかんじで。

そしてやっぱり、この小説はおもしろいのね!
去年この新訳を読んだときは、
大久保訳で染み付いている印象がつよすぎて、
なんかちぐはぐな感じがしたけれど、
もうこの訳をそれとして読めるようになったら、
おもしろい。丁寧にマイノリティの描写をひろってく。
すごいよねえ、シャーマンが迫るアトランタの町で
南軍が食料庫を住民に開放した描写とか、
シャーマンが鉄道を破壊して、レールを柱にくるくるまきつけて、おっきなコルク抜きにみえた、とか。
ミッチェルが家族から聞いたんじゃないかな、という
リアリティのある描写。

それからね、たぶん南部の白人の意識は、
そうそう風と共に去りぬから変わってないとおもう。
ちょっとファニーかな、みたいな感覚がなくもないけど、でもディキシーをうたってそう。
南軍旗かかげてるひととかたくさん見たし。



「ジャングル・ブック」
ラドヤード・キプリング

5歳の息子に読み聞かせたシリーズ。
いやあ、キプリング! 読んでなきゃならない古典、
子どもといっしょに終わらせたよ。
そしたらシャチのドキュメンタリーで、
「モウグリはオオカミに受け入れられたが」
と語っていた言葉を理解できた。
たぶん最低限の教養なのよね、欧米の。
とても面白かったけど、案外時間がかかった。
ジャングルの描写が多いからかな。
次はトム・ソーヤの予定です。



西南役伝説
石牟礼道子

祖母おもかさまが神経どんだったからなのか、
武家の娘で神経どんになってしまった女性の
はなし、あれが溶けていくみたいにすごかった。
なんども読まないといけない本ね、
石牟礼さんのは。最後から二番目の
神経どんの話に揺るがされてしまって、
最後の話はほとんど読み飛ばしてしまった。

ミセスベネットみたいに、
「ママの可哀想な神経を、
気遣って頂戴よ!」
と叫びたかった日。
耳鳴りがして、義母に子どもを預けて、
ショッピングモールのソファで、
ひとり読んでいた、西南役伝説。
でも読みながら震えてきてしまいそうで、
どこかへ連れ去られてしまわないように、
立ったり歩いたり。
頭がくらくらしてしまって。



「みっちんの声」
石牟礼道子
池澤夏樹

みつけたのだよ、慶応の近くのブックオフで。
T・S エリオット研究なんていう本の並ぶ、
ここはどこの神保町だよ、みたいなブックオフで。
いろいろあったけど、これを胸にだきしめた。
神さまがいまわたしにくださったような本。
池澤夏樹ってひと、気になるけれど、
器用に世渡りしてる彼を知りたいわけじゃなかった。
きっと突き詰めて考えてるんだろうけど、
それがじぶんの言葉ではなさそうな、
まだ透かしてみてるかんじ。
だから彼が石牟礼さんを訪ねたときの、
会話の書き起こしの、この本。
これで、なにに近しいと思ったのか、
わかったような気がした。
そして須賀さんを物足りなく感じる理由だとか、
ことばについて、ことばが果たすべきことについて、
ことばよりも生きることについて、
考えていたことを確かめられたような気がした。
石牟礼さんに、傾倒してはいない。
死生観とか、仏教だとかね。
でも求めていたものの、
限りなく近くに来ている気はする。
その魂の深さと、キリストを結びつけるものが、
わたしが求めている文学だとおもう。
そこに線をつなぐことができる、
とわたしは考えているけれど、
誰がする仕事かわからない。
でもそういう言葉を、読んでみたいな。
こういうふうに魂の深い言葉を、
ふれられるくらい近いキリストと
結んでほしい、そういう言葉を、
わたしは読んでみたい。



「文化の脱走兵」
奈倉有里

誠実なひと。
きっと言葉だけじゃなくて、
生き方も、ふつうのひとから見れば、
愚かしいくらいに、誠実なひと。
でも愚かではない。
かのじょはわかっている。
わかっていて、柏崎の狸になった。
気負ってはいない、とても自然に。
トルストイ似のおじいちゃんに導かれた
道の先にあったのが、柏崎の古民家だったので。
かのじょの根はたくさんの本のなかにあるから、
YahooニュースだのThreadsでみるような、
通俗な声はまるで世のなかに存在しなかった
みたいな気になる、読んでいると。
奈倉さんはひとまわりは上のひとだけれど、
でもほかのひとたちよりは少し近い。
やわらかな心を、そのまま持ちながら
生きていくこともできるんだ。
本といっしょに暮らしていったら、
わたしもそんな大人になれるかもしれない。
しなやかな魂を、
失わずにいられるかもしれない。



「坑夫」
夏目漱石

森崎和江さんの「まっくら」
を読んだので、
再読してみたくて、買ってきた。
というのも十年まえに読んだときは、
なにか得体のしれない穴のなかの
あまりにもかけ離れた恐ろしい世界のはなし、
という印象を受けたから。

森崎さんの本のなかの女性たちは、
地下でも血の通ったことばを
見つけだして、語っていた。
それが漱石と対比されるようなきがして。

こんかいはそれほど地獄の話にはみえなかった。
この世の地獄について、読み漁っているからか。
ところどころ挟まれる漱石の感慨、
暗い穴のなかにでも入っていきたい、
みたいな衝動だとかはおもしろいけれど、
森崎さんの炭鉱の女性たちには勝てない。
インテリが書斎でつづる言葉には、
どうしたって限界がある。
だから異質な、とかんじたのか、
さいしょ読んだとき。
異質な、からふみこんで、
そのひとたちと一緒に感じるようになる
まで行っているから、
やはり森崎さんが何枚も上手である。




「海底二万マイル」
ベルヌ

五歳児に読み聞かせシリーズ。
ふつかで読み終えちゃった。
いやあ、いままでのいろんな本の作者は、
みんなこの本を読んでたんだな、
と気付かされるような読書。
息子よ、おまえは五歳で基礎を固められて
いいわねえ。やっぱりちゃんと世界名作全集を
読んでおくことには意義があるんだな。
ちいさい頃、全集的な「いいこちゃん」読書に
反感をいだいていて、(というのも読まされてる子どもたちは、読書の歓びを感じてそうにみえなかったから)
わたしは住井すゑ、灰谷健次郎、
三浦綾子、宮尾登美子、司馬遼太郎、
遠藤周作、井上ひさし、モンゴメリ、
マーガレット・ミッチェルだとかを
乱読していたのだ。小学生のころ付けていた、
読書録、もう残ってないけどなかなか興味深かった。
でも良い本に導いてくれるひとというのは
いなくて、母に勧められた本は橋のない川に
風と共に去りぬだし、
(良い本だよ、でも十歳だった)
良い本を探して迷走する子ども時代だった。
いまさらこういう正当な古典児童文学がたのしい。

息子はサメやタコとたたかうシーンが
たのしくてしかたなかったらしい。
これからジュール・ベルヌ巡礼でもするか。
トム・ソーヤは五歳には早いかなとなって
中断している。なにが早くて遅いのだ、だけど、
トム・ソーヤは人間模様や保守的な教会社会への
皮肉みたいなところが、まだ皮肉を皮肉と判断できない
五歳には早かった。物語をきいたら、それを
そのまま信じてしまう年だものね。
海洋冒険小説あたりが、
純粋な幼児にはむいている。




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