人の心の声を聴いた時...
みなさん、こんにちは!こんばんは!おはよう!
ふたつの痛みの病に侵され、痛みと共に生きるflutist_umakoです。
昨日の投稿にも多くの方から反応いただいたり、シェアしていただいたり、私にはもったいないように紹介していただいたり...感謝の一言です。
もしお時間のある方いらっしゃったら読んでみて下さい。
今日はニューヨークへ!行く日⁉だった?
なぁーんて訳はなく、入浴介助を受ける日でした。
施設で暮らす私は週に2回入浴する事ができます。
お風呂に入るという行為自体は大好きなのですが、体力のない私は座っていればいいだけの機械浴でもぐったりと疲れてしまいます。
それでも元々は私は温泉大好き人間だったので入浴日はやはり心躍ります。
しかし、ぶっちゃけるとその日入浴の介助をしてくれるメンバーによっては気疲れしてしまう事もあるのです。
ニューヨークに行けるのならこんなこと言われても全然気にしないよ!なんてことばが胸に刺さることもあります。
何で本人を目の前に言えるのだろうか?
昨日も「これは今いる施設に限った事ではない」というようなことを書きましたが、今回も表面に浮かんでこないだけで、どの施設でもあるあるな事なのではないかと思います。
しかし実際にはあってはならない事だと私は思います。
だってそれは広い意味では虐待ということばがちらついてくる様なことばだからです。
施設で働いたことのある人は「あぁ、あの感じね」と思うかもしれませんが、そうでない方はどんなことばを投げかけられるのか、どんな事をされるのか分からないと思います。
なので例をあげると...
私の車いすを押しながら女性ケアワーカーさんが、男性ケアワーカーさんに、
「今日あと何人(利用者をお風呂に入れなきゃいけないの)?」
と聞きます。男性ケアワーカーさんの返事を受けて再び女性ケアワーカーさんがこう言います。
「こっちはあと一人!こんなくそ暑い日にやってられねーよ!」
さて、私の頭の上で交わされた会話に、私はいったいどんなことばを投げかければいいのでしょうか?
「ごめんね、暑いのに...」?
なぜ私が謝らなくてはならないのか。
それにそれを言ったところで相手が満足するとは思えない。
しかし、なぜそんな事を本人のいる場で言えるのか私には理解できません。
相手が何を言っても満足しない時には?
以前の私はいつも謝っていました。
自分でも何で謝っているんだろう?と思いながらも。
しかし先述した通り謝ったところで相手は、
「しょうがないじゃん、こんなくそみたいな仕事を選んじゃったんだから」
と、やり場のない怒りが収まる事はありませんでした。
それでも、なぜか自分か悪いと、自分という存在がいるせいでこの人たちは怒っているのではないだろうか?と思い謝っては、相手の怒りに油を注ぐ事態となっていました。
今の私も、こういう会話を聞いて気持ちのいい思いはしませんし、昔考えていたように感じる時もあります。
でも、どんなに理不尽なことを言われたとしても、
「こんなに暑いのに、ありがとう」
と、「ありがとう」ということばを使うようになりました。
すると、こちらに相手を封じ込めるつもりがなくても、相手は何も言えなくなってしまう様です。
もちろん私はまだまだ未熟な考えの持ち主なので、いつ何時も沈着冷静でスラっと「ありがとう」ということばが出てくる訳ではないので、私もまだまだなところがたくさんあるのですが...。
でも「ありがとう」と言われて嫌な感情をいだく人はいないでしょう?
だから、私なりの自分の身の守り方のひとつ「ありがとう」の術です。
終わりに
ことばもきつく、その内容も社会人とは思えない内容の人は私の施設だけではなく、介護業界、社会、世の中にたくさんいると思います。
そういう人を無視することは簡単かもしれないけど、それではまた角が立ってしまいます。
だからこそ「ありがとう」の術なのです。
「ありがとう」の大安売りをしている訳ではありませんよ!
実際、服の上にエプロンをつけてサウナのような浴室で働く事は並大抵の体力ではできないと思います。
そんな努力をしている事に対する感謝の心なのです。