運動を続けられる人とは、自ら「身体を動かす目的」を生成できる人である。
工業化、都市化、そして、テクノロジー化が世の中に浸透するまでは、買い物、水汲み、薪割り、雑巾掛けなど、自ら意識しなくても身体を動かす目的は日常の様々な場面に存在しました。
しかし、現代では、オンラインでモノを買い、SNSでコミニケーションを取り、リモートワークで働くなどと言ったライフスタイルが確立されたことによって、日常生活の中で身体を動かす目的そのものが失われてしまっている。
多くの人は、運動や身体を動かす目的として、ただ単純に痩せたいから、病気になるのが嫌だから運動をするのだと考えてしまいがちです。
でも、多くの人がお金持ちになりたいと思っても、お金持ちになれなかったり、英語が喋れるようになりたいと思っても、英語が喋れるようになれないのはなぜでしょうか?
きっと、それは「お金を使ってこういったことがしたい。」、「英語を使ってこういったことがしたい」などといった強い目的意識が存在しないからなのだと言えます。
つまり、日々、運動を習慣化し、生涯を通じて健康な生活を送りたいのであれば、健康な身体を手に入れて具体的に何をしたいのかを明確にしなければならないのです。
例えば、ある人にとっての身体を動かす目的は「日本百名山」をすべて登ってみたいというものなのかもしれません。
ある人にとっての運動する目的は何歳になっても、オシャレな洋服を着こなしたいというものなのかもしれない。
ある人は、自分自身と向き合い弘法大師空海の教えを理解するために、四国88箇所の1200キロの道のりを歩き、ある人はコミニュケーションの一環としてランニングのコミニティーに参加し、身体を動かします。
そう言った意味では、運動を続けられる人というのは、自ら運動する目的を生成し続けられる人なのだと言える。
例えば、2019年に現役引退をしたイチロー選手は、現役時代よりもきついトレーニングを行なっているのだと言う。それはいつでもお呼びがかかれば、現役選手として活躍したいという明確な目的があるからなのでしょう。
もちろん、身体を動かす目的はイチロー選手のように常に大きな目的である必要はありません。
今日の夜ご飯をちょっと美味しくするために運動をする(空腹こそが最高のスパイス)、もっと街を深く理解するためにウォーキングをする(アイディアと移動距離は比例する)、仲間の繋がるために富士山に一緒に登る(10回の飲み会よりも一回の苦難)など、大きいものから、小さいものまで、運動する目的は様々なものがあることでしょう。
若者や時代の変化に敏感な人達は、「その時代に足りていないもの」に夢中になる。テクノロジーの普及によって、身体を動かす目的が失われたのであれば、時代の変化に敏感な人達が、身体を動かす目的を見つけることに対してハングリーになるのは、必然的なことなのだろう。
現在、フリックフィットでは足元から動作データを取得するセンシングモジュール「ardi」を開発しています。
「ardi」は、ただ動作データを取得するのではなく、様々なユニークな視点でまだその人の人生の中に存在していない(もしくは気づいていない)身体を動かす目的を提供することを長期的なビジョンとして掲げています。
現代は、生きる目的が見つからない、働く目的が見つからない、身体を動かす目的が見つからないという人たちが世の中に溢れている。
むしろ、一昔前は当たり前に存在していた目的を持っていること自体が贅沢な時代になってきているのでしょう。
そう言った意味では、「目的」そのものがラグジュアリー的な価値を持ちはじめているのかもしれません。