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母からの昭和聞き語り

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母から聞いた昭和の話
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女性の喫煙について

女性の喫煙について

最近の傾向ではない。昭和も中ごろ位は女性でも結構な喫煙率であったがこれにはワケがあった。死んだ母方の祖母はそれは見事なたばこのくゆらせ方をしていた。その筋とかお水の商売をしていたわけではない。

母から聞いた話ではこれは戦争中の「配給」「食糧事情」と大きな関係があったそうである。

戦争中は食糧統制が行われており、基本的には配給で食べるものは手に入れていた。現物が支給されるわけではない。配給切符(

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古いクルマの話

古いクルマの話

これは母と祖父から聞いた戦前の自動車事情である。当時のクルマはスターターなんてものはないからエンジンのクランクを手動でぐるぐる回してエンジンをかけていた。エンジンは噴霧式のキャブレーターだから気温に応じてチョークを引く。しかしこれが難しくてチョークの引きが甘いとエンジンは始動しない。だからと言ってチョークを引きすぎてしまうといわゆる「カブって」しまってエンジンはかからない。「カブった」エンジンは燃

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蓬莱屋さんでの顛末

蓬莱屋さんでの顛末

上野御徒町、松坂屋の裏あたりに古いとんかつ屋さんで「蓬莱屋」さんというおみせがある。ここはいつから続いているかはよくわからない老舗である。

昭和の三十年代後半の話を母から聞いた。

母と祖母はよく買い物に出かけていた。渋谷なら東急、日本橋なら三越か白木屋、銀座なら松屋、上野なら松坂屋、それぞれにひいきのお店があったようなのだ。

上野松坂屋の帰りにランチを食べることになった。たまには贅沢してとん

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海水浴と栗木の下駄

海水浴と栗木の下駄

これは昭和14年か15年くらいの話であると思う。

湘南に海水浴に行くのは戦前からのことで浜茶屋を使うのも当たり前である。母が幼かったころにはフォードが3台あって、自家用車としてもよく使われていたらしい。

夏のある日、母一家は祖父の運転で祖母、母、叔母で絵に島に海水浴に行った。当時、自家用車で海水浴行くなんて、今でいえば自家用のヘリコプターでゴルフに行く、くらいに思われていたそうである。

家族

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三越日本橋本店のステータス

三越日本橋本店のステータス

母方の祖父からの聞き語りを書いておきましょう。戦争の話は一休み。今日は戦前の話。

戦前、いわゆる「円タク」と言われるタクシー業が大正に始まった。昭和は昭和6年の満州事変以降、ガソリンなどの物資統制もあって、昭和12年には流し営業の禁止、昭和13年には法人化したタクシー会社しか営業できなくなった。祖父は個人所有のフォードを3台も持っていた(祖母の結納金を全額突っ込んで借金までしてタクシー会社を興し

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東京大空襲の話 その2

東京大空襲の話 その2

祖父、祖母、叔母の三人は何とか墨田川東岸の両国橋東詰めにたどり着いた。避難している人は家財道具やら荷物をしょって押すなへすなの大混乱になっている処へ焼夷弾は落ちてくる、火災の火の粉は降ってくるでとうとう三人は橋のたもとまで押し出されてしまった。しかし両国橋の上を渡るものはいない。なぜなら折からの強い北西風、火災による火災旋風で橋の上に出た者の多くは煽られて前に進めない。そこに火の粉が来るから荷物に

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東京大空襲の話 その1

東京大空襲の話 その1

1945年3月10日、東京は米軍からの大空襲を受けた。台東区など隅田川東岸地区はとても大きな損害を受けた。母は石川県に疎開していたが、祖父、祖母、叔母は台東区高橋(森下駅の辺り)に住んでおり、夜間に空襲を受けた。祖父に聞いた話を記憶として書き残そうと思う。

空襲はナパーム弾(焼夷弾)で行われたので、いきなり多発的に火災が発生した。当日は北風が強い日で空気も乾燥しており、あっという間に周囲は火事に

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上野駅の防空壕のエピソード

上野駅の防空壕のエピソード

時は昭和19年か20年ではないかと思う。これは母と母方の祖母の話である。

母は疎開(今でいう戦災からの危険避難)することになった。当時の東京は米軍による空爆(襲われる日本人は空襲という)が始まり、被害も出始めたので、住んでいた高橋(今でも地番そのままある。都営線の森下の駅界隈)から石川県鳳至郡門前町(現石川県輪島市門前町)に疎開することになった。疎開というのは個人レベルと学校単位のものがあったら

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戦時中の汽車の乗り方

戦時中の汽車の乗り方

上野駅から母は祖母に連れられて石川県に疎開に行くことになったのは前回書いた。

上野駅でも波乱の乗車が母を待っていた。空襲でのダイヤ乱れ、石炭の不足などで国鉄のダイヤはあってもないようなものであったらしい。この列車を乗り過ごすと次の列車はいつか分からない。意地でも乗らなくてはならない。それに子供連れの女性であったが祖母は勝気な人であった。

昔の客車は車両の両端にしか入り口とデッキがなくて入り口で

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