上野駅の防空壕のエピソード
時は昭和19年か20年ではないかと思う。これは母と母方の祖母の話である。
母は疎開(今でいう戦災からの危険避難)することになった。当時の東京は米軍による空爆(襲われる日本人は空襲という)が始まり、被害も出始めたので、住んでいた高橋(今でも地番そのままある。都営線の森下の駅界隈)から石川県鳳至郡門前町(現石川県輪島市門前町)に疎開することになった。疎開というのは個人レベルと学校単位のものがあったらしく、母は個人レベルであった。
当時は上野駅から石川県に向かって国鉄で移動していた。が駅に着いたところで空襲警報が発令された。空襲警報が発令されれば手近な防空壕に退避しなければならない。防空壕の中は明かりがあるわけでもなく、見知らぬものが暗闇で息を殺して敵機襲来が終わり、空襲警報発令解除を待つのである。祖母と母が避難した公共防空壕には学校の先生に引率された生徒の一群も同時にいた。集団の責任者は欠員確認は必須であるから確認をする。
先生:「〇〇学校、番号始め!」
生徒:「イチ、ニ、サン、シ、ゴ.....キュウ」
祖母「ジュウ!」
先生「おかしい、我々は九人だ。番号やりおなし!」
生徒:「イチ、ニ、サン、シ、ゴ.....キュウ」
祖母「ジュウ!」
先生「おかしい、我々は九人だ。番号やりおなし!」
生徒:「イチ、ニ、サン、シ、ゴ.....キュウ」
祖母「ジュウ!」
先生「誰だ、余計な返事をする奴は!」
祖母はここでハタと気が付いたらしい。
先生「おかしい、我々は九人だ。番号やりおなし!」
生徒:「イチ、ニ、サン、シ、ゴ.....キュウ」
祖母:「....」
先生:「確認よし!先ほどのジュウの者、空襲終了後に説明せよ!」
空襲警報解除後、祖母は母を連れて真っ先に防空壕を後にしたそうな。