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努力くらいしかやることがないというだけ
2024年11月12日(火)朝の6:00になりました。
サカナクションの、ツアーが当たりますように。
どうも、高倉大希です。
「がんばれ」
できるだけ、つかいたくない言葉のひとつです。
この言葉をつかうたびに、また言ってしまったと後悔します。
便利だからというだけの理由で、つかっていることが多いからです。
もちろん、相手を応援する気持ちがあるからこその発言です。
ただ、それにしてはあまりにも投げやりで乱暴だよなと思うのです。
人は気軽に「よく考えろ」と言います。でも、言葉のレベル感で言うと、「考えろ」というのは、サッカーの監督だったら「お前ら、勝て」という指示みたいなもので、ほとんど中身がない。
子どもが書いた作文を読むと、「楽しかった」という言葉が何度も出てきます。
運動会も「楽しかった」だし、音楽会も「楽しかった」です。
「楽しかった」と言っておけば、それでよいと思っています。
そこで生まれた感情が、「楽しかった」で止まります。
「がんばれ」という言葉からも、同じにおいがするわけです。
「がんばれ」と言っておけば、それでよいと思っています。
思い込みから脱却するというのは、簡単ではありません。人から正解を教えてもらっても脱却はできないのです。唯一、脱却する方法は、自分でおかしいということを納得すること。それしかありません。
才能とか、運とか。
曖昧なものに頼らないと決めたなら、努力に全権を委ねるしかなくなります。
結果を生む要因の100%が、努力になってしまうわけです。
思いどおりにならなかったら、努力が足りなかったと嘆きます。
努力が担っている範囲が、あまりにも広すぎる気がするのです。
そもそもの計画が漠然としすぎていて、振り返りがろくに機能していません。
「ものごとは努力によって解決しない」というのは、私の好きな言葉である。子どものためにできる限りの努力をした、などという人に会うと、この人は、解決するはずのない努力をし続けることによって、何かの免罪符にしているのではないか、と思わされることがある。
努力をしたから、結果が得られるのではなく。
結果を得るためにできることが、努力くらいしかないだけだ。
このくらいの整理が、いちばんしっくりくるなと思います。
努力くらいしかやることがないから、せいぜい努力をさせていただくわけです。
だから、誰かに対して「がんばれ」とは言いません。
応援の気持ちは、べつの言葉で伝えたいなと思います。
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— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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