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鬼ごっこしか知らない子どもたち


2023年2月5日(日)朝の6:00になりました。

教育関係のお仕事をしています。

どうも、高倉大希です。




小学校の先生だったころ、休み時間は子どもたちと一緒に運動場を走りまわっていました。

やるからには本気です。

大人の走力をもってして、子どもたちを黙らせていました。


そんな小学校教員の経験を通して、ひとつ気づいたことがありました。

それは「子どもたちは、自分が知っている遊びしかしない」ということです。


ものすごく当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、これが今日のテーマです。

鬼ごっこしか知らない子どもたちは、休み時間になるたびに、鬼ごっこをひたすらに繰り返すのです。


ニュートンにとっての微積分学は、「あたらしい数学というよりも、「世界を説明するためのあたらしい言葉」といったほうが的確なのかもしれません。
瀧本哲史(2016)「ミライの授業」講談社


ある日、そんな子どもたちに「ドッジボール」を伝授しました。

ルールを説明し、運動場にラインを引いてあげたのです。


すると、子どもたちの中で空前のドッジボールブームが巻き起こりました。

それ以降は、休み時間になるたびに「鬼ごっこにする?ドッジボールにする?」という話し合いが行われるようになりました。


そんな子どもたちのようすを見て、わたしたち大人の役割を認識しました。

「出会わせるものの選択」と「出会わせ方の選択」です。

いやむしろ、大人にできることはこのふたつくらいなのかもしれません。


ぼくは、先生の役割って、一つの狭い常識のなかで生きている人に、そうじゃないよと教えてくれて、でも、その答えは自分で見つけなさいよらといってくれることだと思います。だから、先生を見て、「ぼくって、わたしって、ちっちゃいなあ」と思えるような人じゃないとダメなんじゃないかなって思います。
高橋源一郎(2022)「5と3/4時間目の授業」講談社


よくある失敗例も、このふたつに紐づきます。

たとえば「子どもたちがすでに出会っているものを、大人が一生懸命に説明しようとする」パターンです。

鬼ごっこを知っている子どもたちに向かって、一生懸命に鬼ごっこのルールを説明します。

ああしなさい。こうしなさい。

「教えてあげている自分」に満足してしまっている事例です。


もうひとつは「何にも出会わせずに『子どもたちの自主性を尊重している』と言ってしまう」パターンです。

そもそもの選択肢をもたない子どもたちに、新しい世界を見せず、ただひたすらに泳がせます。

「自主性 / 主体性 / 能動性」というような耳馴染みのよいことばに、甘えてしまっている事例です。


教師は「子どもたちの学びのサポーター」たるべきであって、「教える」ということ自体がよくない。(中略)しかしこの考え方は、多くの場合「子どもたちが学びたくないと言っているのだから無理には教えない」という「逃げ」の口実とされ、学習指導要領のような「基準」を持っていなかったこれらの国々で、大規模な学力低下をもたらしました。
岡本薫(2001)『教育論議を「かみ合わせる」ための35のカギ』明治図書


子どもたちに、何をどう出会わせるのか。

この選択にはとても大きな責任がある分、それだけの価値があります。

引きつづき、運動場に新しいラインを引いていこうと思います。





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