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「考えすぎ」と言われたくなかった


2023年8月10日(水)朝の6:00になりました。

杞の国に、人の天地の崩墜して身の寄する所亡きを憂へて、寝食を廃する者有り。

どうも、高倉大希です。




むかしから、人に言われて嫌な言葉というものがあります。

それは「考えすぎ」という言葉です。

「むずかしく考えすぎだって」とか、「まじめに考えすぎだって」とか。


たしかに、実際に考えすぎてしまっているだけのこともよくあります。

もっとシンプルに考えられたらよい場面なんて、振り返ればいくらでもあるものです。


しかし、それを他者から言われてしまうと、とてもさみしい気持ちになります。

「これ以上お前の思考に付き合うつもりはない」と、切り捨てられた気になるのです。


それならば、一番極端なところをいったん考えてみる。そうしたら、「そこまでしたら、自分がひどいやつじゃん!?」と思い始めるかもしれません。はじめから「ちょうどいい」ところを考えつくというのは、なかなか難しいことなのです。

糸井重里(2014)「インターネット的」PHP研究所


「考えすぎ」と言われると、話すことがなくなります。

「そうかもしれないね」と答えて、すべての話はおしまいです。


原因は、自分が考えすぎなだけ。

考えすぎていなければ、すべての問題は解決する。


むずかしく考えすぎだって。

まじめに考えすぎだって。


思春期の頃、人との会話を通して最も僕が快楽を感じるのは、知らないことに気付けた瞬間であり、誰かから新しい価値観や視点を与えられる瞬間だった。

又吉直樹(2023)「月と散文」KADOKAWA


幸いなことに、いま身を置いている環境では「考えすぎ」と言われることがありません。

むしろ、「もっと考えろよ」と言ってもらえます。


大学時代もそうでした。

自分のアウトプットに対して、「もっと考えろよ」と言ってくれる人がいました。


だからこそ自分は、いまここにいるのだろうなと思います。

日々、自分の小ささに気づくことができたのです。


ぼくは、先生の役割って、一つの狭い常識のなかで生きている人に、そうじゃないよと教えてくれて、でも、その答えは自分で見つけなさいよらといってくれることだと思います。だから、先生を見て、「ぼくって、わたしって、ちっちゃいなあ」と思えるような人じゃないとダメなんじゃないかなって思います。

高橋源一郎(2022)「5と3/4時間目の授業」講談社


自分が言われて嫌だからこそ、他者にも「考えすぎ」とは言わないようにしています。

基本的に、考えるという行為は面倒くさいものです。

放っておけば、できるだけ考えない方へと流れます。


「考えられる」という事実は、ある種の才能なのではないかとすら思います。

シンプルな思考は、考えて、考えて、考え抜いた先にしかみつかりません。


本日も、最後まで読んでいただきありがとうございました。

もっと考えろよ。






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高倉大希
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