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みんなで食べるごはんは本当においしいのか
2024年4月26日(金)朝の6:00になりました。
涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない。
どうも、高倉大希です。
ごはんは、みんなで食べた方がおいしい。
むかしからずっとこの言葉に、違和感を抱いています。
もちろん、言わんとしていることはわかります。
食卓をみんなで囲んで仲良くしようと、きっとそう言いたいのでしょう。
ただ、だからといってさすがに言い過ぎな気がします。
みんなで食べた方がおいしいだなんて、思ったことはありません。
はじめは、どこかそこらへんの、木の実があれば木の実、あるいは獣がおれば獣を獲って食っている。草があれば、食えそうな草を食っている。そういうような形でいるのが、だんだんよけいなことを考えるようになって、先ほどから言う、自己もまた他者になってしまうという世界を作ってしまう。
みんなで食べたところで、べつに味は変わらないでしょ。
決してそんなつまらないことを、言いたいわけではありません。
ごはんは、みんなで食べた方がおいしい。
と、みんなが思っているはずだ。
この謎の前提に、大きな違和感があるのです。
ひとりがおいしいと思ったとて、みんなが同じように思っているとは限りません。
一人ひとり、感じ方や考え方は少しずつ違います。違っていて当たり前です。育った環境から学び働く環境まで、すべてが「別の人格」なのですから。だからそれぞれが完全にわかりあえたり、意見がぴたりと重なりあったりすることなんてありません。プロの集団が物事を決めていく時には、それを前提にすべきなのです。
仲良くなるために、食事をしよう。
本当は、それでよいはずです。
みんなで食べた方がおいしい。
こんなわけのわからないロジックを、持ち出す必要はありません。
おいしいと思ったのは、あなたというひとりの人間です。
隣の人がどう感じているかは、またべつの話です。
「みんなが容易に(自分と)同じ気持ちを共有できるはずだ」と安易に考えてしまう日本人の多くは、自然に持つものである「気持ち」というものと、努力によって人工的に作るものである「ルール」というものとの区別がつかないため、まず「ルール」と「モラル」の混同という重大な事態に陥ります。
みんなで食べるごはんを、おいしいと感じる人もいます。
ひとりで食べるごはんを、おいしいと感じる人もいます。
みんなで食べるごはんを、しんどいと思う人もいます。
ひとりで食べるごはんを、さみしいと思う人もいます。
だからこそ、立ち止まって考えなければなりません。
みんなで食べるごはんは、本当においしいのだろうか。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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