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ほとんどの文章は自分のために書かれたわけじゃない


2024年10月24日(木)朝の6:00になりました。

はやく、シャワーからお湯が出ますように。

どうも、高倉大希です。




文章を読んでいて、難しいなと思うことがよくあります。

用いられている語彙に馴染みがなかったり、論理がやや複雑だったり。


「頭のいい人は、難しい内容も易しい言葉で表現してくれるはずだ」

「だから、書き手が悪いんだ」


そう言いたくなる気持ちも、わからなくはありません。

わからなくはありませんが、どうにも前提が間違っているような気がします。


「数学なんか勉強しても、四則計算以外は何の役にも立たない」という言葉をよく聞きます。大変皮肉なことですが、そのようなセリフが出てくること自体が、数学による「抽象化の学習」が失敗していることを意味するのです。

細谷巧(2014)「具体と抽象 世界がわかって見える知性の仕組み」dZERO


そもそもを考えてみると、その文章は自分のために書かれたわけではありません。

書き手が想定する読み手は、ほぼ確実に自分ではないわけです。


想定していなかったやつが、勝手に読んで文句を垂れている。

書き手からしてみれば、知ったこっちゃありません。


「べつに、お前のために書いちゃいねえよ」

そのひと言で、おしまいです。


言語というのは、共通認識があることを前提としてコミュニケーションをするのですが、実は、そのコモングラウンドが成り立たないことはけっこうたくさんあります。お互いに経験がすごく違いすぎていたり、相手の経験を考えず、自分の頭にあることは相手もわかるはずみたいな思い込みがあったり……。

為末大、今井むつみ(2023)「言葉、身体、学び」扶桑社


いちど書かれた文章は、基本的には変わりません。

変わらない文章に適応するのは、読み手側の役割です。


書き手の論理に、どこまで歩み寄ることができるのか。

これが、読み手には求められます。


書き手のせいにしてしまうのは、簡単です。

読むことをやめてしまうのも、簡単です


世の中のほうは、私のためにあるわけじゃありません。私たちが生まれてくる以前から世の中は先にあります。私の好き嫌いとは関係なく、すでに世の中は存在している。だったら、とりあえず受け入れるしかありません。それが大前提です。

養老孟司(2023)「ものがわかるということ」祥伝社


人と話すことは好きですが、そこで交わされるのは自分用の言葉です。

自分にちゃんと伝わるように、一応は相手が気を遣ってくれます。


だからこそ、自分用ではない言葉に触れ続ける努力も必要だよなと思います。

世の中の言葉の大半は、自分用ではありません。


この文章も、同様です。

ほとんどの文章は、自分のために書かれたわけではありません。







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