ほとんどの文章は自分のために書かれたわけじゃない
2024年10月24日(木)朝の6:00になりました。
はやく、シャワーからお湯が出ますように。
どうも、高倉大希です。
文章を読んでいて、難しいなと思うことがよくあります。
用いられている語彙に馴染みがなかったり、論理がやや複雑だったり。
「頭のいい人は、難しい内容も易しい言葉で表現してくれるはずだ」
「だから、書き手が悪いんだ」
そう言いたくなる気持ちも、わからなくはありません。
わからなくはありませんが、どうにも前提が間違っているような気がします。
そもそもを考えてみると、その文章は自分のために書かれたわけではありません。
書き手が想定する読み手は、ほぼ確実に自分ではないわけです。
想定していなかったやつが、勝手に読んで文句を垂れている。
書き手からしてみれば、知ったこっちゃありません。
「べつに、お前のために書いちゃいねえよ」
そのひと言で、おしまいです。
いちど書かれた文章は、基本的には変わりません。
変わらない文章に適応するのは、読み手側の役割です。
書き手の論理に、どこまで歩み寄ることができるのか。
これが、読み手には求められます。
書き手のせいにしてしまうのは、簡単です。
読むことをやめてしまうのも、簡単です
人と話すことは好きですが、そこで交わされるのは自分用の言葉です。
自分にちゃんと伝わるように、一応は相手が気を遣ってくれます。
だからこそ、自分用ではない言葉に触れ続ける努力も必要だよなと思います。
世の中の言葉の大半は、自分用ではありません。
この文章も、同様です。
ほとんどの文章は、自分のために書かれたわけではありません。
サポートしたあなたには幸せが訪れます。