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書くことは自我を調整するトレーニング
2025年1月3日(金)朝の6:00になりました。
大晦日と元日を犠牲にして、すこしの健康を手に入れました。
どうも、高倉大希です。
誰にも、読まれない。
書くことは、ここからはじまります。
こんなことを書いても大丈夫かな、とか。
こんなことを書いたら変だと思われるかな、とか。
そんな不安を、抱く必要はありません。
なぜならあなたの文章は、誰にも読まれないからです。
読者は、あなたに興味がない。読者にとって、あなたの書こうとするテーマはどうでもいい。冷徹な現実だ。しかしこの現実を認めるところからしか、始まらない。
過去の自分の文章を読み返すと、鼻をつまみたくなります。
自我のにおいが、鼻をツンと刺すからです。
空中に自我という文字が、浮かび上がってくるのではないか。
そう思ってしまうくらいに、自我のにおいがぷんぷんします。
この比喩も、書いた直後に消してしまおうかと考えました。
結局はこういう表現が、においのもとになるからです。
自分で「うまいこと言えた」と思える箇所ほど、読者を興醒めさせる贅肉だったりするものだ。ためらことなく削ぎ落としていこう。そして、まずはレシピどおりにつくる地力をつけること。隠し味を加えるのは、そのあとで十分である。
決してそんな自我のにおいを、全否定しているわけではありません。
むしろ、それらを認識できている時点でよいことだよなと思います。
においが認識できるからこそ、消臭することが可能になります。
そもそものにおいに気づけなければ、いつまで経ってもそのままです。
だからこそ、自我のにおいを恐れてはなりません。
もっとも避けるべきなのは、自我のにおいを恐れて1文字も書かないことです。
『わたしの日記』やら『うちの赤ちゃんの写真』も含めて、認める立場です。出てしまったものは出してしまえばいいと思います。自己満足が表出することを、ぼくは肯定しています。
いま書いているこの文章だって、いつかはにおいはじめます。
現時点でにおうかどうかとは、またべつの話です。
文章は、変わりません。
読む自分が、変わります。
こうしてわかった感じで書いているのも、これまたひとつの自我なわけです。
必死に保険をかけているのも、これまたひとつの自我なわけです。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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