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書くことは自我を調整するトレーニング


2025年1月3日(金)朝の6:00になりました。

大晦日と元日を犠牲にして、すこしの健康を手に入れました。

どうも、高倉大希です。




誰にも、読まれない。

書くことは、ここからはじまります。


こんなことを書いても大丈夫かな、とか。

こんなことを書いたら変だと思われるかな、とか。


そんな不安を、抱く必要はありません。

なぜならあなたの文章は、誰にも読まれないからです。


読者は、あなたに興味がない。読者にとって、あなたの書こうとするテーマはどうでもいい。冷徹な現実だ。しかしこの現実を認めるところからしか、始まらない。

近藤康太郎(2023)「三行で撃つ」CCCメディアハウス


過去の自分の文章を読み返すと、鼻をつまみたくなります。

自我のにおいが、鼻をツンと刺すからです。


空中に自我という文字が、浮かび上がってくるのではないか。

そう思ってしまうくらいに、自我のにおいがぷんぷんします。


この比喩も、書いた直後に消してしまおうかと考えました。

結局はこういう表現が、においのもとになるからです。


自分で「うまいこと言えた」と思える箇所ほど、読者を興醒めさせる贅肉だったりするものだ。ためらことなく削ぎ落としていこう。そして、まずはレシピどおりにつくる地力をつけること。隠し味を加えるのは、そのあとで十分である。

古賀史健(2021)「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」ダイヤモンド社


決してそんな自我のにおいを、全否定しているわけではありません。

むしろ、それらを認識できている時点でよいことだよなと思います。


においが認識できるからこそ、消臭することが可能になります。

そもそものにおいに気づけなければ、いつまで経ってもそのままです。


だからこそ、自我のにおいを恐れてはなりません。

もっとも避けるべきなのは、自我のにおいを恐れて1文字も書かないことです。


『わたしの日記』やら『うちの赤ちゃんの写真』も含めて、認める立場です。出てしまったものは出してしまえばいいと思います。自己満足が表出することを、ぼくは肯定しています。

糸井重里(2014)「インターネット的」PHP研究所


いま書いているこの文章だって、いつかはにおいはじめます。

現時点でにおうかどうかとは、またべつの話です。


文章は、変わりません。

読む自分が、変わります。


こうしてわかった感じで書いているのも、これまたひとつの自我なわけです。

必死に保険をかけているのも、これまたひとつの自我なわけです。






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高倉大希
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