見出し画像

下書きはありません


2025年2月24日(月)朝の6:00になりました。

寂しいときは、寂しいって言った方がいいですよ。

どうも、高倉大希です。




毎朝6:00に、note を更新しています。

下書きは、ひとつもありません。


かつては、数日分の下書きをためていたこともありました。

書けないことはないのですが、どうにも性に合いません。


翌朝になって読み返してみると、なんだか違う気がしてくるからです。

すこしでも時間をおいてしまうと、恥ずかしくなってしまいます。


訂正の本質はある種の「メタ意識」にあると言うことができます。自分が無意識にやってしまったことに対して、「あれ、違うかな」と違和感をもったり、距離を感じたりするときに、訂正の契機が生まれます。

東浩紀(2023)「訂正する力」朝日新聞出版


文末を言い切って、書くことがよくあります。

あれは決して、自信があるから言い切っているわけではありません。


むしろ、自信のなさが文末に表れていると言った方が正確です。

どうせ間違っているのなら、思い切り間違えた方がよいだろうというわけです。


数日後に読み返してみると、やっぱり恥ずかしくなります。

でも、それでよいのだろうなと思います。


あとで結果を見た時、自分の判断が当たっているかどうかがわかることが重要で、とにかくそういうことを繰り返す。なぜそう思ったかということについては、あとで考えればいい。とりあえず中途半端なポジションではなく、極端なポジションを取り、それをできるだけ口に出すようにしているんです。

石川善樹(2019)「問い続ける力」筑摩書房


人目に触れるところに文章を投稿することで、ある種の逃げ場がなくなります。

言い換えるなら、なかったことにできなくなります。


下書きには、まだその余白が残っています。

過程はほぼ同じですが、やはり投稿することに大きな意味があるのです。


だからこそメタ認知が追いつく前に、えいやっと投稿します。

そんな暫定解の蓄積が、このマガジン「柿の種」です。


「どんな仕事でも、とにかく毎日、一〇年やったらモノになる」と言いましたが、一〇年以上やっている人は、まず、「自己評価が正確である」と言えるんです。これはもう、前提にしたいと思います。

吉本隆明、糸井重里(2004)「悪人正機」新潮社


書き手である自分自身は、恥ずかしいと思っている。

でも読み手となる他者は、べつに何も気にしちゃいない。


これが、ひとつの理想形であるような気がします。

自己評価の内側に、他者評価が収まっている状態です。


今日も今日とて、下書きはありません。

この文章も、もちろん書き立てほやほやです。






いいなと思ったら応援しよう!

高倉大希
サポートしたあなたには幸せが訪れます。