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下書きはありません
2025年2月24日(月)朝の6:00になりました。
寂しいときは、寂しいって言った方がいいですよ。
どうも、高倉大希です。
毎朝6:00に、note を更新しています。
下書きは、ひとつもありません。
かつては、数日分の下書きをためていたこともありました。
書けないことはないのですが、どうにも性に合いません。
翌朝になって読み返してみると、なんだか違う気がしてくるからです。
すこしでも時間をおいてしまうと、恥ずかしくなってしまいます。
訂正の本質はある種の「メタ意識」にあると言うことができます。自分が無意識にやってしまったことに対して、「あれ、違うかな」と違和感をもったり、距離を感じたりするときに、訂正の契機が生まれます。
文末を言い切って、書くことがよくあります。
あれは決して、自信があるから言い切っているわけではありません。
むしろ、自信のなさが文末に表れていると言った方が正確です。
どうせ間違っているのなら、思い切り間違えた方がよいだろうというわけです。
数日後に読み返してみると、やっぱり恥ずかしくなります。
でも、それでよいのだろうなと思います。
あとで結果を見た時、自分の判断が当たっているかどうかがわかることが重要で、とにかくそういうことを繰り返す。なぜそう思ったかということについては、あとで考えればいい。とりあえず中途半端なポジションではなく、極端なポジションを取り、それをできるだけ口に出すようにしているんです。
人目に触れるところに文章を投稿することで、ある種の逃げ場がなくなります。
言い換えるなら、なかったことにできなくなります。
下書きには、まだその余白が残っています。
過程はほぼ同じですが、やはり投稿することに大きな意味があるのです。
だからこそメタ認知が追いつく前に、えいやっと投稿します。
そんな暫定解の蓄積が、このマガジン「柿の種」です。
「どんな仕事でも、とにかく毎日、一〇年やったらモノになる」と言いましたが、一〇年以上やっている人は、まず、「自己評価が正確である」と言えるんです。これはもう、前提にしたいと思います。
書き手である自分自身は、恥ずかしいと思っている。
でも読み手となる他者は、べつに何も気にしちゃいない。
これが、ひとつの理想形であるような気がします。
自己評価の内側に、他者評価が収まっている状態です。
今日も今日とて、下書きはありません。
この文章も、もちろん書き立てほやほやです。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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