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話さなければ考えもしなかった


2025年1月5日(日)朝の6:00になりました。

たいちょうをくずしたりもしたけれど、私はげんきです。

どうも、高倉大希です。




この年末年始も、たくさんの人とお会いしてきました。

電話も悪くないけれど、やはり会って話すに越したことはありません。


こんなこと、ひとりだったら考えもしなかった。

人と話すといつだって、新しい発見があるものです。


相手にとっても、そんな発見がある場になっていたらなと思います。

お時間をいただいた皆様、本当にありがとうございました。


最終的に、聴き手と語り手の両方が「こんな話、するつもりじゃなかったのに」と思えるような場所にまでたどり着く取材が、ぼくの理想だ。あとはライターの自分が、うまくまとめてくれるだろう。

古賀史健(2021)「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」ダイヤモンド社


自分が変わる可能性を、前提に置いておく。

人と話すときに、心がけていることのひとつです。


相手を変える、ではありません。

自分が変わる、可能性です。


変わる気がないのに聞くだけ聞くというのも、なんだか失礼な気がします。

ましてや、相手を変えてやろうだなんてとんでもない話です。


人間は元来、「対話」を欲してはいません。価値観が近い気の合う仲間だけで楽しく暮らしていけるのであれば「対話」は必要ない。「会話」だけで十分なのです。しかし、もはや世界に出るまでもなく、日本社会も多様化が進んでいますから、「会話」だけでは対応できない。

平田オリザ(2022)「ともに生きるための演劇」NHK出版


相手の話を鵜呑みにしよう、というわけではありません。

相手の話の中からよいところだけを頂戴しよう、というわけでもありません。


お互いの素材を場に出して、調理して共に食べましょう。

この表現がいまのところ、もっとも近いのではないかと思っています。


違う人間どうしだからこそ、そこにしかない料理が生まれます。

べつの人と話したら、当然またべつの料理が生まれます。


バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。(中略)それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。

東浩紀(2013)「訂正する力」朝日新聞出版


近年の傾向は、どうにも共感に重きが置かれがちです。

たしかに共感も大切ですが、共感だけでできた料理はあまりおいしくありません。


違う場所に生まれて、違う時間を生きてきたのです。

せっかくならば、違う素材を場に出して調理をはじめたいものです。


また、会いましょう。

また、話しましょう。






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高倉大希
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