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盆面は清々しくあれ
2024年8月5日(月)朝の6:00になりました。
怠惰を求めて勤勉に行き着くか…カカカ…それもそうだ。
どうも、高倉大希です。
博打の世界に、盆面(ぼんづら)という言葉があります。
打ち手の態度を、意味する言葉です。
負けても、潔く負ける。
人のせいにしたり、運のなさを呪ったりしない。
そんな人のことを、「盆面がいい」と言います。
つねづね、盆面が清々しい人でありたいなと思います。
自分に都合が悪いことはすべて、「社会が悪い」「社会のせいだ」というあの態度だ。でも、社会が自分の外にあると思っているのは、ほかでもないその人だ。自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言ってることになるのだろう。
小学生のころ、「ディベートをしてみよう」という授業がありました。
ひとつのテーマに対して、できるだけロジカルに話し合いを進めます。
当時から理屈っぽかった少年は、完膚なきまでに相手のチームを説き伏せました。
それがとても痛快で、何ならもの足りなさすら感じていたくらいです。
ところが、そのような気持ちのよさは数分でなくなりました。
相手チームが、休み時間になっても機嫌を損ねたままだったからです。
「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。
いやいや、そういう授業だったじゃん。
授業が終われば、切り替えるのがマナーじゃん。
そう思いはしたものの、小学生どうしです。
なかなかスパっと、割り切ることができません。
それからというもの、ディベートのような対立構造を遠ざけるようになりました。
盆面がよくない人と対立しても、よいことなどないからです。
バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。(中略)ずっと発言の訂正が続いていく。それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。
盆面がよくない人は、自分自身を否定されたと思い込みます。
否定したのはあくまでもその人の意見であって、その人自身ではありません。
その人の意見に反することを言うと、顔を真っ赤にして怒りはじめてしまいます。
そうなると、違うよなと思っていても同調するしかありません。
だからこそ、盆面が清々しい人でありたいなと思います。
真っ当に、対話ができる人でありたいなと思います。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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