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盆面は清々しくあれ


2024年8月5日(月)朝の6:00になりました。

怠惰を求めて勤勉に行き着くか…カカカ…それもそうだ。

どうも、高倉大希です。




博打の世界に、盆面(ぼんづら)という言葉があります。

打ち手の態度を、意味する言葉です。


負けても、潔く負ける。

人のせいにしたり、運のなさを呪ったりしない。


そんな人のことを、「盆面がいい」と言います。

つねづね、盆面が清々しい人でありたいなと思います。


自分に都合が悪いことはすべて、「社会が悪い」「社会のせいだ」というあの態度だ。でも、社会が自分の外にあると思っているのは、ほかでもないその人だ。自分でそう思い込んでいるだけなのに、じゃあその人はいったい何を責め、誰が悪いと言ってることになるのだろう。

池田昌子(2003)「14歳からの哲学」トランスビュー


小学生のころ、「ディベートをしてみよう」という授業がありました。

ひとつのテーマに対して、できるだけロジカルに話し合いを進めます。


当時から理屈っぽかった少年は、完膚なきまでに相手のチームを説き伏せました。

それがとても痛快で、何ならもの足りなさすら感じていたくらいです。


ところが、そのような気持ちのよさは数分でなくなりました。

相手チームが、休み時間になっても機嫌を損ねたままだったからです。


「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。

苫野一徳、工藤勇一(2022)「子どもたちに民主主義を教えよう」あさま社


いやいや、そういう授業だったじゃん。

授業が終われば、切り替えるのがマナーじゃん。


そう思いはしたものの、小学生どうしです。

なかなかスパっと、割り切ることができません。


それからというもの、ディベートのような対立構造を遠ざけるようになりました。

盆面がよくない人と対立しても、よいことなどないからです。


バフチンによる対話の定義がどういうものかというと、「いつでも相手の言葉に対して反論できる状況がある」ということです。(中略)ずっと発言の訂正が続いていく。それが他者がいるということであり、対話ということなんだとバフチンは主張しているわけです。

東浩紀(2013)「訂正する力」朝日新聞出版


盆面がよくない人は、自分自身を否定されたと思い込みます。

否定したのはあくまでもその人の意見であって、その人自身ではありません。


その人の意見に反することを言うと、顔を真っ赤にして怒りはじめてしまいます。

そうなると、違うよなと思っていても同調するしかありません。


だからこそ、盆面が清々しい人でありたいなと思います。

真っ当に、対話ができる人でありたいなと思います。






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