思い出せないというより、あまりにもはっきりと思い出せてしまうので、嘘だと分かる。 「雪の練習生」多和田葉子
多和田葉子の本を読んだのは二回目。一回目に読んだ「犬婿入り」と同じくなんとなく不思議な話。最初は不思議さが面白かったけど途中で訳わからなくなり読むのを止めた。
春は悲しい。春になると若返ると言う人もいるけれど、若返ったせいで子供の頃のことばかり思い出すようになって、思い出が重荷になって、かえって年よりじみてくる。
共感の嵐すぎる。俺が春を嫌いな理由はこれが大きいかもしれない。思い出すことは決まって卒業式だとか入学式だとかの大切でもなんでもない記憶ばかりで、どれもいやになる。
くやしいので家に帰ってすぐに机に向かった。くやしさほど燃えやすい燃料はない。くやしさをうまく使えば、燃料を節約して生産活動ができるのではないか。でも、くやしさは森へ行って集めてくるわけにはいかない。誰かがくれる大切なプレゼントだ。
くやしさをなんと上手に表現するのだろう。確かにくやしさは拾い集めることのできるものではなく、人から与えられることが多いからプレゼントのような物なのかもしれない。これからはもっとくやしさをポジティブに捉えることが出来そう。
目の前に満面の微笑みがひろがっているが、脇の下から嘘がぷんぷんにおってくる。微笑は人間が顔にのせる表情のうちで最も信用できないものの一つだということが分かってきた。人は自分の寛大さを売りつけ、相手を操作するために微笑む。
そんな気がする。あとから思ったけど、「満面の微笑み」って矛盾しているような気もしなくもない。
思い出せないというより、あまりにもはっきりと思い出せてしまうので、嘘だと分かる。
すごい。あまりにもはっきりしすぎてる記憶って作られたものだったりするよなと。これ読んでから思い出せる記憶に対して切なさを感じるようになってしまった。思い出せるものなんて所詮作られたものでしかなくて、何気ない記憶は忘れ去られているのかも。