2024年9月の記事一覧
加藤のファミリーヒストリー24 尚文
祖母の死から2年後、長男尚文が愛妻幸枝の後を追うように亡くなります。
脳腫瘍が発見され、だんだんに家族のこともわからなくなっていきました。
のちに、特攻隊にいた時、上官からひどく殴られて一時期意識不明になったことがわかります。
当時彼の班にいた兵士が、本来ならば地元の人と交流してはいけないのに、交流したことがわかり、班長だった尚文も責任を問われて罰を受けたという経緯だったようですが、それほどとなる
加藤のファミリーヒストリー23 みつの死
尚文の長女真紀が結婚し、清から数えると4世代目が生まれます。そして登美子の長女陽子も結婚 。加藤ファミリーはその枝を広げながら賑やかに家族が増えていきました
みつにとってはひ孫。その顔を見られて良かったと思います。
祖母みつはとにかく器用でしたし、料理も上手でした。
戦時中は風呂敷から足袋を縫ったりしていたそうです。
料理は町田に来てからもずいぶんやってくれました。
一度、私がクリームコロッケを
加藤のファミリーヒストリー22 同居
祖父清が亡くなって、平井の家は処分することになり、祖母みつは’我が家へ来ることになりました。
その時の日記です
1978年8月31日
私の家なら昼間は誰もいないし、留守番になる
娘の家だから、お嫁さんみたいに気を使わなくていい。
私とパパは前々からおばあちゃんがうちにくることを主張している。
それが一番自然じゃないか?本音を言えば、私は家族が多い方が好きだし、
きっとそうなると思うけど
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加藤のファミリーヒストリー21 清の死
1978年8月7日 清は85歳の生涯を終えました。
江戸川区平井の小さな家でその生涯を終えられたことは幸せだったと思います。
祖母も高齢。一人で看病するのも大変だったのだと思います。一つ、一つ、できていたことができなくなって、だんだんに衰えて亡くなりました。
まだ高校生だった私は、老いることにまったく無知だったし、人は皆こんな風に消えて行くのか?としか思わなかったけれど、現代の高齢者や支える家族の
加藤のファミリーヒストリー20 町田へ
1975年私が中学1年の夏 いよいよ身体が不自由になった清はみつとともに町田の我が家へやってきました。近所には尚文家もあるし、母君枝がいるから、今後のみつにかかる負担を減らせるだろうと、兄弟が話し合って決めたことだったと思います。
でも清本人は少し認知症もあったのか、平井の家から連れ出すだけで、柱にしがみついて抵抗したと聞いています。
たとえどんなに不自由になっても、「我が家」ほど安心な場所はない
加藤のファミリーヒストリー18 清76歳の誕生日に
母君枝の談によれば、彼女が大学生の頃、清はある日脳溢血で倒れ、以来言葉が不自由でした。
私に語りかけてくる清の口調は、舌がはっきり使えず、ゆっくりゆっくりでした。
経済的にも、肉体的にも不自由なことはあったと思いますが、子供達がそれぞれに活躍し、家を持ち、溌剌とした生活をしていても、清は何を望むでもなく質素な平井の家に住み続けていました。
ガラガラと音を立てる引き戸を開けると、もう使われなくなっ
加藤のファミリーヒストリー17 それぞれの道で
昭和40年代 加藤の兄弟はそれぞれの道で活躍していました。
尚文は評論家として、テレビの討論会?(トーク番組?)に度々出演しては、勢いのある語り口調で注目を集めており、各分野に交友関係も広がっていました。
登美子は薬局を切り盛りするかたわら、地域活動に積極的で、土浦の自然を守る会会長として霞ヶ浦の水質汚染浄化活動にも力を入れ、さらには「くずかごの唄」というエッセイも執筆。日々勢力的に飛び回ってい