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加藤のファミリーヒストリー18 清76歳の誕生日に

母君枝の談によれば、彼女が大学生の頃、清はある日脳溢血で倒れ、以来言葉が不自由でした。
私に語りかけてくる清の口調は、舌がはっきり使えず、ゆっくりゆっくりでした。
経済的にも、肉体的にも不自由なことはあったと思いますが、子供達がそれぞれに活躍し、家を持ち、溌剌とした生活をしていても、清は何を望むでもなく質素な平井の家に住み続けていました。

ガラガラと音を立てる引き戸を開けると、もう使われなくなった事務所、その奥には工場がありました。
壁には孫たちが送った、おじいちゃんやおばあちゃんの似顔絵が貼ってある。
右手に木板で作った段があり、そこを上がると居住空間が6畳?(よく覚えていませんが)和室二間。
そのさきの縁側の右奥がトイレ私が小さい頃はまだ水洗でもありませんでした。
奥が台所奥が台所。台所に近い方の部屋をダイニングとして使用
そのダイニングの裏側に3畳ほどの清の部屋(寝床)がありました。
たったそれだけの家でした
お正月や10月13日清の誕生日には、その小さな家に兄弟一家がぎゅうぎゅうに集まってひしめき合いながら、近所のすし政の出前握り寿司を頬張りました。
加藤の兄弟新聞で綴られていた清の投稿には、子供と孫たちが幸せでいることこそが自身の幸せと感じてたとわかります

1968年清76歳誕生日に

13日は本当に愉快であった。76年生きた喜びを噛み締めて味わった。4人の子供たちが皆健康でそれぞれ自分の子供たちが溌剌と元気いっぱいに自分の好きなように振る舞う。こんな幸せなことがあろうか老萊を感ずる隙がない。4人の子供が一緒に揃ったことは珍しい。戦争で尚文は学徒出陣として飛行機に乗る。家族は下伊那の二金に厄介になりまる2年半無我夢中で暮らす。それが今はどうだろう。615で家内と私を心配させた尚武は、のうのうと東大におさまる。同窓生の皆さんは会社を創設したりしておらるるが、僕は金は儲け損なったが4人の子供、8人の孫は健在で、それだけ金満家になったとうそぶく自分は最早人生の最終点についた。淋しい気がする

左から登美子、清、尚文、尚武、前列にみつ、君枝
加藤4兄弟

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