百年後芸術祭に行った
とある小学校が、敷地内に分校を置くという。
学区内にマンションが次々と建ち、5年後には45学級を超える見通しだとか。
単純計算で、ひと学年約7クラス。
異次元の少子化対策が叫ばれているご時世に、局地的なタイムスリップだ。
ふつう、分校というのは本校とは離れた場所に造られるもの。しかし、ここの校庭は一般的な小学校の2倍の広さがあるのだ。
いっぽう、房総半島の山間部では、廃校となった小学校に老若男女が集う。
木々や竹が生い茂る道をくねくねと登っていくと、突如、カラフルな壁面があらわれる。
ここは、百年後芸術祭‐内房総アートフェス‐(2024/3/23~2024/5/26)の会場のひとつである。
市原市の月出小学校は、世帯数の減少で2007年にその134年の歴史に幕を下ろした。
その後、2014年に芸術の発信拠点「月出工舎」として再出発。
「遊・学・匠・食」の4つのプロジェクトを通し、みんなでつくる新しいがっこうとして、分野や世代を超えた場や世界観を創ることを目指しているという。
かつての校舎に描かれたカラフルな壁画は、作品のひとつだ。
校舎の向かいには、校庭を隔てて立派なプールがある。消毒槽や、シャワーがなつかしい。
水のないプールでは、大きな立体作品が存在感を放つ。目を洗う蛇口も、あの日の記憶がよみがえる。
「見落としがちなので忘れないでくださいね」と係の方が教えてくれた、プールサイドの小屋におそるおそる入る。
中は真っ暗で、体育館にありそうな大きな時計や、なにかの破片が、光る糸をまとってぼんやりとその輪郭を主張していた。
月出小学校での役目を終えたものたちに、再度光を与える、という作品だという。
光る糸はオワンクラゲの蛍光シルクで、有機物ゆえ、いずれまた光を失うらしい。
生きとし生けるもの、何度でも輝けるけれど、永遠ではないという真理。
物思いにふけっていたら、同行者が外から扉を押さえて閉じ込めようとする。
童心にかえりすぎだ。小学校という場のもつ力、計り知れない。
小学校の周りは、とにかく緑豊かな里山と森である。ここにも、野外作品が点在している。
上品なご夫婦が、ジャックラッセルテリアと散歩しながら鑑賞していた。
そうか、野外作品なら愛犬と一緒に回ることもできるのか。
誰もが参加できる芸術祭は、種も問わないらしい。バリアフリー面では、そうもいかないところもあったけれど。
プルプルと揺れる短いしっぽを目の端で追いながら、わたしも歩みを進める。犬好きなので、なんだか得した気分だ。
道中には、思春期まっさかりの竹があった。
背丈はいっちょまえだが、姿はまだ茶色いタケノコで、頭はツンツンに尖っている。
こどもの姿は消えても、なにかは脈々と、すくすくと育っている。
風が吹くと、静かな森に竹の葉がさらさらと音を立てて舞い散った。
野生のみかんの木もあった。数メートルはあろう大木に、圧倒される。
一面の緑のなかに、あたたかなまるい橙色。柑橘好きにはたまらない光景だ。
あとで写真フォルダを見返したら、作品よりもこの木の写真のほうが多かった。
でも、木々と実に包み込まれるダイナミズムと美しさは、実際にその場にいないと再現できない。
きっと、月出小学校の歩みを長年見届けてきたのだろう。
かつての在校生は、放課後にこの「月出みかん」を採ったり食べたりしたのだろうか。なんとゆたかな小学生ライフ。
作品にも、風に揺れるみかんが。
配色があの梨の妖精の色なのは、千葉県だからだろうか。みかんなのに。
ふと、目の端にいるジャックラッセルテリアが歩みを止めた。
飼い主の奥様が声をかけて促しても、一点を見つめたまま、かたまっている。
そういえば、どこからか防災無線のようなくぐもった音が聞こえてくる。
繰り返しなにかを喋っているのだが、よく聞き取れない。小さなモフモフの耳は、いち早くその音を受け取ったのだ。
その視線の先を登っていくと、スピーカーが設置されていて、そこから音が放たれていた。
これも、『I Can't Hear You』という作品なのだという。
会場の両端にあるスピーカーから一瞬ずらして音声が流れており、鑑賞者がある一点にたどり着くと、はっきり聞き取れるようになるという仕組みだ。
しかし、ようやく聞こえた言葉は「よく聞こえません」を意味するという、皮肉な矛盾。
少子化なのに都市部では分校ができるし、すくすく健康に育ちそうな山間部にはこどもがいない。
この世は矛盾に満ちている、そんなことを思った。
現代アートは難解なものが多いけれど、ふとした瞬間に自分の身の回りのできごとや、考えや、思いとつながることがある。
おもてむきは芸術で、実は社会学。
寝苦しい夜、体勢を変えたら急に鼻づまりが解消したような爽快感と幸福感があるのだ。
たとえが下世話で申し訳ない。
出口で再会したジャックラッセルテリアは、旦那さんに抱っこされていた。あの場から、テコでも動かなかったのだろうか。
モフモフも魅了(?)する百年後芸術祭は、ほかにも廃校となった小学校や、店じまいした建物を再利用して展示が行われている。
思い出や歴史は、消えそうになっても、かたちを変えて受け継がれていく。
とにかくエリアが広大なので、すべては周りきれなかったが、月出工舎はその環境や出会いもふくめて見ごたえがあった。
さて、校庭に分校の幕が上がる某小学校は、100年後、いやまず10年後、どうなっているのだろう。
なにをかくそう、わたしも小4までそこに通っていたのだ。
思い出の場所が、こんなめずらしいかたちで変化していくとは。
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