くちなしに魅せられて
家路を急ぐ夏至の夜。
やわらかい甘い香りが、初夏の夜風に乗って玄関を開けようとする手をさえぎった。
「お久しぶりね、覚えていますか、わたしよ・・・」
と言わんばかりに、手のひら大のくちなしの白い花が、生まれたての蝶が羽を広げるように幻想的に咲いている。八重咲きなので一層華やかだ。
上品だけれど、儚げで妖艶。目の前に「魅せられて」を歌うジュディオングさんが現れたような錯覚に陥る。
その香りで季節の到来を教えられる花と言えば、秋のキンモクセイ、春の沈丁花はよく知られているが、夏のくちなしを忘れていた。3つの中では最も親しみやすいタイプの香りだと思う。夜に見ると、その花びらの滑らかさや白さが際立つ。
毎年咲いていたのだろうか。そういえば玄関裏にひっそり生えていたのを思い出したが、去年はほとんど外に出なかったので、香りに気づかなかった。
調べてみると、「6~7月に開花し、日本では本州の静岡県以西・四国・九州、南西諸島の森林に自生する」という。ここは神奈川県の山の上。キンモクセイや沈丁花に比べたら、自生は珍しいのかもしれない。
確かに市街地ではまず見かけないし、香らない。どうりで、先の2つに比べたらわたしの記憶から抜け落ちているわけだ。
私有地なので、1輪手折り家に招き入れた。途端、部屋中が甘い香りに包まれた。ジャスミンの香りにも似ているので、心なしか気持ちが安らぐ。くちなしのルームフレグランスが欲しいくらいだ。
白い花と濃い緑の葉のコントラストも美しい。ビロードのような厚手の花びらにおそるおそる触れると、すぐに指が香った。でもこれ、花びらが傷つきやすいし、切り花にするとすぐ萎れてしまうのよね。
くちなしの花で思い出すのは、季節だけではない。
わたしが学生の頃、カラオケは5桁くらいの番号を入力して曲を選ぶシステムだった。流行りの曲を入れようとして数字を誤り、演歌が出てきてしまって「誰~!?」とひと盛り上がりするのはよくある光景だったと思う。
わたしも多分に漏れず、番号を入れ間違えた。ゆずか何かを入れようとして、画面に映し出されたタイトルが渡哲也さんの「くちなしの花」。さすがに存じ上げない。あれから十数年、改めて歌詞を読んでみた。
いまでは指輪も まわるほど
やせてやつれた おまえのうわさ
くちなしの花の 花のかおりが
旅路の果てまで ついてくる
くちなしの 白い花
おまえのような 花だった
くちなしの花/渡哲也/1973
こういう内容なら、確かに香木の中ではくちなしが一番世界観にそぐう。キンモクセイと沈丁花はもう少し甘酸っぱくて幼い感じがする。いずれにせよ、ぺんぺん草のような10代のわたしにはとても歌えない歌だった。
月日は流れ、洋菓子メーカーに就職したわたしは、くちなしが着色料として使われていることを知る。
商品の裏面表示に、着色料としてしばしば「クチナシ」の表記が出てきて驚いた。しかも「クチナシ赤」「クチナシ青」「クチナシ黄」と、信号のように色の三原色が揃っている。
(表記方法は簡略名や類別名などいろいろあるため、「クチナシ」でまとめることが多い。カロチノイドと表記されることもある)
花から作られる着色料はほかにもある。例えば、上の表示にもあるベニバナ。赤系や黄色系の着色料として使われる。山形県の県花で、染料や植物性油としても名高い。
そして、マリーゴールド。これも黄色系の着色料として使われる。植え込みでよく見かける花だが、あいみょんのヒット曲で一躍有名になったと思う。
あとは、ハイビスカスが赤系の着色料として使われる。いずれも、その花の色から何となく想像はつく。
しかしくちなしは、八重咲きやサイズ違いはあれど、花は一貫して白い。ほんとうにあの白い花から赤や青が!?と、業界初心者のわたしには、にわかには信じられなかった。
どうやら、くちなしの場合は花弁ではなくて、果実から取れる黄色の着色料を加水分解したり、酸を加えたり、酵素処理したりすると赤や青に変わるらしい。狂おしいほどの文系なので、難しいことはよくわからない(急に放棄して申し訳ありません)。
ちなみに、クチナシ青とクチナシ黄を混ぜたら、緑色も作れる。植物由来なので少々発色は鈍いが、もはや天然の絵の具だ。
切り花にしたくちなしの花は、案の定翌日には萎れてしまった。でも不思議と葉はピンとしているし、「やせてやつれた」花でも、香りは健在。
美しい見た目に、かぐわしい香りに、呼び戻される記憶。そして着色料としての実用的な一面。生薬や漢方にも使われている。こんなに万能な花だったのか。
すっかり「魅せられて」しまった。
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