愛の反対は本当に無関心なのか?
「愛の反対は無関心」という言葉に
少し捉われすぎじゃないか?
そう思った一日。
無心と無関心は違うのか?
無心になろうとして
なれるものではないと知るが、
完全なる無心になることはなくとも
無心になろうと坐り続けるなかに、
言葉にすることができない
玄妙なる何かがあることは、
まちがいない。
では、無関心とは何か?
他者への心配り、
他者への怒り、憎しみも含めて、
他者の存在が全く目に入らない、
実世界に存在したとて、
もともと私の世界には
存在しないもの、
ゆえに意識にのぼらない、
そのような状態だと仮定する。
あろうがなかろうが、
どちらでもいい対象、
対象とも呼べない対象か。
趙州和尚の言に従いて
無の字に参じた場合、
呼吸に集中していた意識が
まるでその場に溶けるにして、
外側と内側を観察し始める。
その後呼吸への意識が
溶け出したことに気づき、
再び呼吸へと意識を向ける。
これだけの、
意識 無意識
の流れがあっては、
とても無心であるとは言えぬ。
ましてや無関心ではない、
と思う。
そして愛とは?
坐禅は無所得というが、
それは無償の愛とは違うのか?
似て非なるもの?
そもそも違うもの?
愛なるもの?
もの?
もの?
この問いが、
一番難しそう。