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【天気の子】を5年ぶりに再視聴したら、全く違う感想になった話

たった一人の少女の両肩に、
世界のあらゆる問題を背負わせて狂った世界。

そんな狂った世界と少女を、
たった一人の少年が救う物語。

それが、「天気の子」である。



最近、5年ぶりに新海誠監督の映画「天気の子」を改めて観た。


自分でも驚くほどに観た後の感想が違っていたので、自分の中でどのような変化があったのか、

そして、「天気の子」から感じたメッセージを僕なりに考察してみる。


まず、5年前に「天気の子」を観た感想はこんな感じ。↓

主人公「穂高ほだか」が、ヒロイン「陽菜ひな」を救うために、自分勝手な行動をとり、周りに迷惑をかけて、

挙げ句の果てには東京を水没させてしまうという、非常に後味の悪いバッドエンドの映画・・・。


で、5年越しに観た感想はこちら↓

「大切な人」といっしょに過ごす、という「当たり前」が叶わない「異常な世界」を、

穂高と陽菜が勇気を振り絞って行動を起こし、当たり前を享受できる「正常な世界」を取り戻そうとする映画。

こんな感じ。


我ながら、感想が違いすぎると思う。

・穂高にとって大切な人は、陽菜。
・陽菜にとって大切な人は、お母さんと弟、そして穂高。
・須賀さんにとって大切な人は、娘。


それぞれが、大切な人と「一緒にいたい」と願うけど、それが叶わない。「世間」が、それを許さない。


穂高の邪魔をするのは、警察や須賀さん。

ただ、須賀さんは最後の最後で、「自分も穂高と同じように、人生を棒に振ってでも会いたい人がいる」ということに気づき、穂高に協力することになるけど。

陽菜のもとには、警察や児童相談所の「大人」たちがやってきて、邪魔をする。


須賀さんは一人娘に会いたいと願うも、義母がそれを邪魔をする。


あえて「邪魔」という表現をしているけど、そこには「善意」が含まれている。だからやっかいなのだ。

つまり、穂高や陽菜からしたら、「余計なお世話」であり、「ほっといてくれよ」ってこと。


でも、世間は「ほっといてはくれない」。


なぜなら、世間にとっては「不都合な存在」だから。

幼い子供が家出するにも、子供同士で暮らすのも「不都合」。なので、黙って「世間のルール」に則って暮らしてくれればいい。


それが「みんなにとって都合が良い」からだ。


ここで頭に浮かんだのが、

イギリスの思想家 ベンサムが唱えた、「最大多数の最大幸福」である。

つまり、功利主義的な思想だ。

みんなの幸福を考えるのなら、一人の少女、つまり陽菜が犠牲(人柱)になっても、しょうがないよね。だってそれが「みんなのためだから」的なイメージ。

有名な思想実験の「トロッコ問題」とも似ている状況かも。


つまり、この映画は視聴者に「問いかけ」をしているのだ。


たった一人の少女の両肩にすべてを背負わせて世界の均衡が保たれているけど、そんな状態で多くの人が「当たり前」を享受しているなんておかしくない?


誰もが自分にとっての「当たり前」を享受する(大切な人といっしょに過ごす)権利はあるはずなのに。

という感じ。

ただ、「世界」というスケールだとイメージしづらいので、「学校の教室」にたとえてみると分かりやすい。

下記のような状況を想像してみてほしい↓

仮にクラスで誰か一人が「いじめの標的(A君)」にされたとする。

そして、A君がいじめられている期間は、クラスは平穏そのもの。子供達が日々抱いている不満・怒りなど、負の感情をA君に容赦なくぶつける。

そんな「狂った状況」を、先生は「見て見ぬふり」をする。

つまり、A君一人の「学校生活を送る」という「当たり前」を犠牲にして、その他大勢の子たちの「平穏な毎日」が保たれているのだ。


でも、誰か一人の犠牲のもとに成り立つ「平穏」なんて、おかしいよね?そのA君だって「当たり前に学校生活を送る権利」あるよね?

ということがイメージできると思う。


で、これを天気の子に置き換えてみると、


→いじめられているA君=「穂高 or 陽菜 or 須賀さん」
→いじめている子達=「世間」


ということになる。

もちろん「世間」には、いじめている「自覚」 などない。だからこそ、やっかいなのだ。

で、

天気の子の物語を、「いじめが発生している学校教室」で例えてみると、


A君(穂高や陽菜)が立ち上がり、いじめっ子達(世間)に必死に抵抗をして、

自分が享受するはずだった「当たり前に学校生活を送る権利(大切な人と一緒に過ごす権利)」を勝ち取るために奔走した物語、

というわけだ。


ようするに、いじめが起こっているのに、周りが見て見ぬふりをして平穏を保っている世界=「狂っている世界」に対して、

穂高や陽菜が声を上げ、「正常な世界」を取り戻そうとしたのだ。


そして、映画のラスト、須賀さんが穂高に向かって言ったセリフには多くのメッセージが込めれているように思う。↓

まあ、気にすんなよ、青年。世界なんてさ、どうせもともと狂ってんだから

須賀さん


また、映画を通じて大切なメッセージとしてもう一つ上げられるのが、

「大丈夫」

という言葉だ。


RADWIMPSの歌う主題歌「大丈夫」の歌詞を改めて読むと、穂高と陽菜の心情がよく分かる。

歌詞を少し置き換えてみると、

====

僕(穂高)にだけは、君(陽菜)の両肩に世界が乗っているのが見えてすごく辛そうに見える。

僕はその姿に悲しくて泣き出しそうになる。

悲しそうにしている僕に気づいた君は、

「大丈夫?」って尋ねてくるから、

慌てて僕は、「大丈夫!」って答えた。

けど、なんでそんなこと聞くんだよ。
今にも崩れそうなのは君の方なのに。

だから、僕は君の「大丈夫」になりたい。
君を”大丈夫にしたい”のではなく、

君にとっての「大丈夫と思える存在」になりたい。

====

この歌詞は、穂高と陽菜の心情を表している。

この「大丈夫」という言葉から感じたのは、

仮に周りが敵だらけだとしても、たった一人自分の味方になってくれる人がいるのなら、それはとても幸せなことである、ということだ。

そんな風に、「目の前の困っている人を大切にする心」を多くの人が持てたとしたら、

一人が犠牲になって保たれるような「狂った世界」は無くなり、誰もが大切な人のために協力しあう「正常な世界」になるのではなかろうか、

なんてことを感じたのだ。




以上、5年ぶりに「天気の子」を見返してみたら、本当に様々な気付きがあり、非常に面白かった。


以前紹介したジブリ作品と同じく、自分のライフステージによって感想が変化していくような、多くの気付きが含められている作品だと思う。

もちろん、今回僕が紹介した考察も、一個人の考察に過ぎないし、新海誠監督がどういったメッセージを込めているのかは定かではない。


なので、僕と同じように最初は後味の悪い映画だな〜と感じた人ほど、もう一度観て欲しいと思う。

きっと様々な気付きに繋がったり、違った感想になると思う。

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