国木田独歩・その自由恋愛の実体
わたしは、普段、自分の考えていることを、あまり、ひとには、話さない。
これまでの人生で、こころから共感出来るひととの出会いは、ほとんどなかったし、自分の感覚は、きっと、世間とは、ずいぶん、ズレているんだろうなと、思っているからだ。
こころを許して、ひとと話すことに、あんまり、魅力が持てない。というよりも、違和感しか受け取れない会話に、疲れ果ててしまっていると言ったほうが良い。
根は「正直」だから、「嘘」は、つきたくない。
それでも、面倒だから、つい、思ってもいないのに、「共感したふり」をしてしまう。
自分のそんなところが、実は「嫌い」だから、ひととは、話したくなくなる。
その繰り返しのうちに、年をとってしまった。。
特に、同世代の女性とは、趣向や感覚が、あまりにもかけ離れていて、話を合わせていると、ほんとうに、疲弊してしまう。。
むしろ、男性のほうが、まだ、話が合う確率が高い。
よく、夫からは、
「お前さんは、男前だからね。」
と、言われる。
病気をしたから、もう、お酒は、ほとんど止めたけれども、二十代の頃は、辛口の日本酒を、六合や七合呑んでも、なぜか、二日酔いもしなければ、悪酔いもしなかった。
ビールちょっとで、真っ赤になってしまう夫とは、「まるで正反対」だ。
それに、わたしは、物事の捉えかたが、大雑把で、決断が、早い。イジイジするのが嫌いなのだ。そして、決めたらもう、行動している。
むしろ、夫のほうが、イジイジと、いつまでも、いろいろと考えていて、なかなか行動に移さない。
だから、まぁ、夫から見れば、わたしは「男前」なのかも、しれない。。
そんなわけで、同世代の女性たちとは、とにかく気が合わないから、わたしには、友達付き合いというものが、まるっきり、無いのだ。
それでも、お友達になってみたいひとたちは、ほんとうは、たくさん、いる。
それは、明治期の「小説家」や「詩人」たち、だ。
全然現実的ではない、けれど。。
それでも、もしも、会えるなら、一番会いたいひとは、「国木田独歩」かな、と思う。
彼が体験した、明治時代風な「自由恋愛」や「駆け落ち的な結婚」のこと、さらには、彼の代表作で、わたしが大好きな「牛肉と馬鈴薯」の制作秘話などについて、直接、聴けたらいいのにな、などと、本気で、願っている。
「国木田独歩」は、明治時代に生まれ、明治時代のうちに亡くなった。
純粋な「明治期に生きたひと」だ。
一般的には、「夏目漱石」や、「森鴎外」を、明治期の文壇の中心に祀って、有り難がるけれど、わたしの気持ちのなかでの、その中心は、絶対的に、「国木田独歩」と「田山花袋」である。
「二葉亭四迷」が訳したツルゲーネフの小説「あいびき」に、大きな影響を受け、その文章を「引用」しながら、「独歩」が、その代表作の「武蔵野」を書いたことは、つとに「有名な」おはなしだ。
小説「武蔵野」は、「武蔵野の自然」について、「独歩」が、ツルゲーネフ的な解釈方法で書いた文章なのである。
「独歩」と「花袋」は、フランス自然主義の「ゾラ」や「モーパッサン」、さらには、「ゴンクール兄弟」などの影響も、大きく受けていると言われている。
いわゆる「自然主義」の作家だ。
「花袋」は、「文学史」の教科書的には、小説「蒲団」で、知られているけれど、それだけではなくて、実にたくさんの文章を書いている。
「全集」だってあるのだ。
「花袋」の文章は、簡潔で、とてもわかりやすい。文章自体は、淡々としているのに、心情は、しっかりと伝わって来るので、ほんとうに上手だなぁ、と、わたしは、いつも、感心する。
「蒲団」は、我が国で、初めて書かれた「私小説」だと、言われているから、「花袋」は、わたしにとっては、「我が師」と仰ぐべき存在だ。
それでも、わたしがお友達になりたいのは、何と言っても、「国木田独歩」なのである。
なぜなら、「独歩」は、ロマンに溢れ、直情的で、一途で、情熱的な「詩人」だからだ。
感情が揺れ動くままに書き綴る「独歩」の日記「欺かざるの記」からは、彼の、溢れるほどの「ロマン的情熱」と、「絶望と希望が交錯するおもい」とが伝わって来て、読んでいるだけで、わたしは、胸が熱くなる。
代表作「牛肉と馬鈴薯」の、会話中心の展開や、最後の「決め台詞」も、熱さが伝わって来て、わたしは、大好きだ。
べろんべろんに酔いながら、議論をしまくる面々のなかに、是非、わたしも入れて戴きたいな、と、叶わぬ夢を見たりする。
あるいは、あの時代の「武蔵野」を、「独歩」と散策出来たら良いのになぁ、とも、思う。
「独歩」の最初の妻「佐々城信子」は、彼と一緒に、「武蔵野」を散策したひとだ。
「独歩」の「欺かざるの記」には、「佐々城信子」との、「なれそめから別れ」までの心情が、事細かに、書かれている。
明治期における「自由恋愛」の実体が、克明に描かれている、と言っても良い。
二人は、出逢い、「恋」に落ち、逢瀬を重ねるのだけれど、「信子」の両親の反対に遭う。
それでも、策を練って、なんとか、「結婚」するのだ。
それによって、「信子」は、親から、ほぼ、勘当状態になってしまう。
それなのに、幸せなはずの結婚生活は、たった五ヶ月で、「信子の家出」によって破綻する。。
「結婚出来たこと」で、大満足していた「独歩」は、よもや、信子が「家出」をするなんてことは、考えもつかない。だから、心配して、考えつく限りの場所を、探しまくるのだ。
自分は「信子」に、捨てられたのだと自覚するまでに、かなりの時間が、過ぎてしまう。。
やがて、もう、「信子」は、自分のもとには、二度と戻って来ないのだ、と分かってしまうところは、ほんとうに、せつない。
諦めきれない「独歩」は、「別れ」のモードに切り替えることが、なかなか出来ず、未練たっぷりに、感情的に、日記を綴り続ける。。
なぜ信子は、黙って、自分のもとを、去ってしまったのか。。。
すっかり気落ちしてしまう「純粋」な「独歩」は、ほんとうに、かわいそうだ。
それでも、「信子」の家出の、ほんとうの理由を、「独歩」は、結局、理解出来なかったのではないだろうか。
「進歩的」であったはずだけど、「男女同権」には、ほど遠い、明治期の男性の意識の限界が、そこには、あるのだと、わたしは思っている。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
江戸から明治への変化が、人びとの暮しにもたらした変化は、如何ばかりだったことだろう。
封建制の崩壊は、幕藩体制に護られていた旧潘の重臣たちの生活をさえ、大きく揺るがした。朝敵とされた旧潘の者たちは、俸禄も減らされ、生活の危機に立たされた者たちも、多かったのだ。
「独歩」と「恋」に落ちた、佐々城信子の生母「佐々城豊寿」も、そんな環境に翻弄された「家」のひとであった。
「佐々城豊寿」は、一八五三年に、仙台藩に生まれた。ペリーが浦賀に着いた年のことだ。仙台藩士で漢学者でもあった「星雄記」が父である。
そこから、時代は、大きく変動してゆく。ほどなく、幕府という依るべき大樹を失った人びとは、やがて、「教育による立志」をめざして、活発に、動き出すのだ。
「星雄記」の三女で、才気煥発として知られた「豊寿」も そのなかのひとりである。幼名は「艶(えん)」と言った。
彼女は、仙台の街なかを、男装し、馬に乗って、闊歩していたそうである。男が生まれなかった「星」家で、「男のように」育てられたのだった。
十七歳で、勉学のために上京し、「英語」を本格的に学び出す。やがて、その師であった、同じ仙台藩出身の元藩医と不倫関係に陥るが、その師は、なんと、本妻を離縁して、「豊寿」と正式に結婚する。
「佐々城豊寿」は、結婚後、四人の子どもを育てながらも、女性解放運動に献身し、活躍してゆく。かなりの女傑だったようだ。
自宅はサロンのように解放して、さまざまな「時のひと」を招待し、「文化的な交流」を図ることで、「人脈」を作り、活動していたのだ。
「豊寿」の長女として生まれた「信子」も、そんなサロンの「接待役」として、自由に、のびのびと活躍していた。
「信子」のいとこに、のちに、「新宿中村屋」を立ち上げる「相馬黒光」がいる。「黒光」は、そのころ、飯田橋にあった寄宿制の女学校で勉学に励んでいて、週末ごとに「豊寿」の「サロン」を訪問しては、見聞を広げていたという。
「豊寿」の姉の子どもで、「信子」より二歳ほど年上だった「黒光」は、そのころは、まだ「星 良子」という名前であった。
彼女は、「独歩」と「信子」の「恋」を見守った「最重要人物」である。
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「私は間違いました。いまは後悔しています。私は、もうどうしてもこの家にいることが出来ません。けれど母上は私が佐々城の家に帰ることをお許し下さるでしょうか、もしお許し下さるならば、どうぞ良さんにここに来てもらって下さい。何も言わないで合図をしてもらって下さい。私はそれを見たら母上がお許し下さったことと思って、どうしてでもここを出て帰ります」(相馬愛蔵・黒光著作集3 默移「国木田独歩と信子」郷土出版社)より
これは、一八八六年の四月のはじめに、「信子」が家出を決意して、実家の母にすがった「手紙」の、だいたいの内容である。
「信子」は、すでに、はっきりと、「結婚」を「間違い」と認め、「後悔」している。
つまりは、「信子」は、自らの「意志」で、「家出」を「決意」したのであった。
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「独歩」と「信子」が、はじめて出逢ったのは、一八八五年の六月十日である。「独歩」の「欺かざるの記」にも、それは、記述されている。
その日は、「国民新聞社」と「毎日新聞社」から、「日清戦争」の「従軍記者」たちが、「佐々城家」に招かれていた。「独歩」は、徳富蘇峰が創始した「国民新聞社」の記者だったのだ。
「戦争」を、如何にして国民に伝えるか、思案を重ねた結果、「独歩」は、自分の弟に語りかける形式を編み出した。
必ず「愛弟よ。」という語りかけで書き出され、「愛弟通信」と名付けられたその記事は、読者のあいだで評判となり、「独歩」は、一躍「時のひと」となっていた。
二人が出逢ったとき、「信子」は十六歳、「独歩」は、二十三歳だった。
可憐な姿で、客のあいだを甲斐甲斐しく動き回り、上手に歌唱などもする「信子」は、「独歩」に、強い印象を、残したのだった。
帰りがけに、「信子」は、「また来て下さいね。」というような意味のことを言った。そして、「独歩」は、そんな「信子」に、最新刊の家庭雑誌二冊を、手渡した。
そんな、さり気ない「出逢い」が、やがて、しだいに、加速してゆく。。
「また来て下さいね。」という言葉のままに、「独歩」は、「佐々城家」に入りびたるようになり、二人は、急激に、親近感を抱き合う。
父親は医者、母親は婦人解放の活動家、という、両親が、留守がちな家庭で、二人は、一ヶ月くらいのうちに、お互いが惹かれ合っていることを、「自覚」する。
そうして、八月には、もう、「接吻」をかわす仲になってしまう。二人は、「武蔵野」の雑木林を散策し、「あいびき」を重ねるのだ。
そうして、九月には、二人は、「信子」の友人「遠藤よき」を伴っての、塩原への一泊旅行を企てる。。
明治時代においては、未婚の男女の一泊旅行は、完全にNGである。
旅館に落ち着いた夜、突然に、「信子」の父親が、訪ねて来て、三人は仰天する。
父親は、母親「豊寿」が書いた、二人への「叱責の手紙」を持参していた。両親は、ようやく、二人の異変に気づいたのだった。
そもそも、「独歩」は、そのころ、北海道に渡り、原野を開墾して、生計を立てようという自己の人生の計画を練っていたのだし、「信子」は北米に留学して、「新聞」の勉強をしようとしていたはずであった。
「独歩」は、北海道に下見に行って、決心を新たにするのだけれど、父親と弟に、泣いて反対されて、しだいに、こころが揺らいでゆく。
さらに、「信子」の「北米行」については、「独歩」は、最初のころは理解を示していたのに、しだいに、二人の「結婚」を阻むものとして、認めない方向に変化してゆくのだった。
そのころ、ある事件が、起こる。
机の上に置き去りにしてしまった「独歩」からの手紙を、「信子」は、父親に、読まれてしまったのだ。
その手紙には、「未来の妻よ」と書かれていたため、母親まで出て来て、責められた「信子」は、ただただ大泣きしてしまう。
そこに、たまたま訪ねて来た「信子」の友人「遠藤よき」は、事態を収集する、と称して、「信子」を引き取り、自分の姉の嫁ぎ先に連れて行ってしまう。
このとき、「よき」に従って、外に出た「信子」は、それきり、実家には、帰れなくなってしまうのだ。
「結婚」に向かって、二人の「運命」は、動き出してゆく。。
何故なら、「よき」は、「信子」を連れ去ったあと、すぐに「独歩」に連絡を取り、「信子」のもとに、「独歩」が会いに行けるように、取り計らってしまったから、だ。
「すでに、二人は、愛し合っていて、こころのうちでは夫婦なのだ」と認識してしまっている「独歩」は、両親の虐待から、「信子」を救い出さねばならない、という観点のもと、動き出す。
「信子」を「救う」ために、さらには、二人の「夫婦」としての体裁を調えるために、「独歩」は、そこから多方面に奔走する。
その間、「信子」は、「遠藤よき」の姉の家に寄宿しながら、「独歩」のもとを訪ねたりしている。
「独歩」は、もはや、「信子との結婚」しか、眼中に無いし、「よき」も、それに加担しているから、「信子」と「実家」の関係の修復のためには動かない。
直前まで「北米行」を希望していた「信子」のおもいを、「独歩」は、「それは信子の本心ではない」と勝手に解釈して、無視し続けるほどだった。
「信子」は、ほんとうに、「独歩」との「結婚」を望んでいたのかということについては、甚だ、疑問が残ってしまう。。
それでも、「独歩」は情熱のままに、「信子を救い、我が物にする」という目的に向かってひた走ってゆく。
一八八五年 十一月十一日
「独歩」と「信子」は、ついに、結婚する。
すでに、「信子」の両親からは、書面で、結婚は許すけれども、親兄弟は「信子」と「独歩」との面会はしない、また、結婚後少なくとも一年は、東京府下からは離れて暮らすように、という条件が示されていた。
「信子」の父母は欠席するなか、「独歩」が、「結婚」に際して、協力を求めた数名の人びとと、「独歩」の両親と弟のみが出席して、大変に質素な着物に身を包んだ「信子」は「花嫁」となった。
それから二人は、逗子に行き、農家に間借りして、新生活を始めることになる。
二人の生活は、貧困を極めたものだったようだ。なぜなら、「独歩」は、その収入で、自分の両親と弟をも養っていたからだ。
「結婚」を成就させた「独歩」は、「得意満面」であっても、「お嬢さんの暮し」しか知らない「信子」が幸せだったとは、わたしには、どうしても思えない。
それに、二人は、生活のしかたを話し合って、「夜更かし」はしないこと、朝は午前五時に起床すること、と決めたけれど、「夜型人間」の「独歩」が、それを守ることは、かなり、難しかった。
あまりの「貧困」に耐えかねて、翌年三月の末には、東京隼町の両親の家に、二人は転がり込むことになり、今度は、その同居が、さらに、「信子」の自由を奪う。
「独歩」は、猜疑心が強く、「信子」の「単独行動」を許さなかった。そのため、共に行動することを、「信子」に強いたのだ。
そんなことだから、「信子」は、もう、窒息しそうになって、「家出」の決行に至るのである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
後年、「信子」が、「黒光」に語ったとされる記述がある。
長いのだけれど、とても大切な証言なので、書き出してみる。
「いったい私は国木田を好きであったことは本当でした。けれども、結婚しようと言われると急に怖くなった、いやになってしまう。あの人は話し上手でしたから、とても面白かったけれど、女を我が物顔したり、女房扱いをされると私は侮辱を感ずるのです。それに、父さんに国木田から来た手紙を見つかってひどく叱られたんです。もう内容は忘れてしまったけれど、その手紙に『未来の妻よ』と書いてあったものだから、父さんは母さんと二人で厳しく詰問したのです。私だって『未来の妻よ』なんて言われて、いやな文句だと思って機嫌を悪くしていたくらいのところでしたから、何とかそこで申し開きをすれば、両親だってそんなにわからずやではないのだから、きっと了解したろうと、今ではそう思うのですが、ずいぶんあの頃は私は馬鹿でした。何も言わずにただわあわあ泣いてしまったのです。だって自分のそれが大切な手紙だったら、どうして父さんに見つかるような机の上にほうっておきましょう。自分で何故それが言えなかったのか今でも分からないのです。」
そうして、「よき」に引き取られた後のことも、語っている。
『そのうち、佐々城の家の様子を見て来るからと言って、四国町にいってくれたと思うと帰って来て「まだまだあなたは家へは帰れない、お父さんもお母さんもちっとも怒りが解けてない」と言って、何度も同じことを繰り返しているのが辛くて堪らないのに、一方独歩は毎日来ては結婚を迫るのです。』
『「ここは姉の家なんだから、あなたはいつまでも長くこうしてはいられないし、ご両親も怒っていらっしゃるとしたら、国木田さんのところへ行くよりほかには仕方がないじゃありませんか」と私をおびやかすでしょう、そのうちに独歩は刃物を私に突きつけて結婚を強いるので、私は怖くて怖くて、そこで否応なしというわけだったの』
「あの人はそれにとても嫉妬やきなんで、ちっとも私を自由にしてくれなかった、わたしはしつこいのが大嫌いでしょう、おしまいに煩くなって、じつは初めから逃げ出そう逃げ出そうと思っていたのでしたの、私には嫉妬なんか馬鹿馬鹿しくて出来やしない」 (相馬愛蔵・黒光著作集3 默移「国木田独歩と信子」郷土出版社)より
この記述が、もし、事実だとしたら、これは、現代の感覚ならば、「犯罪の域」に達している。もはや、「無理心中」覚悟の求愛である。
「信子」は、実は、「独歩」の「飽くなき情熱」の犠牲者なのではないか、とさえ、思えて来るのだ。
それに、「独歩」は、自分の人生の「伴侶」として、どうしても、「信子」が必要だと、固く信じていたのだろうけれど、「信子」のほうは、まだ、子ども過ぎて、「独歩」を理解することも出来ず、「恋に恋をしている」ような状態だったのではなかろうか、などと、わたしは、想像してしまう。
「恋愛」というものが、独立した「個」と「個」とのあいだに育まれるものとするならば、「信子」は、まだ、独立した「個」を確立していたとは言い難いように、わたしには、感じられてならない。
これは、果たして、「自由恋愛」と呼べるものなのだろうか。
疑問である。
それでも、世間の評価は、人気者の「独歩」に味方をした。
「独歩」を置いて家出した「信子」は、「独歩を翻弄した女」として、世間から、糾弾されたのだ。
このスキャンダルは、人気者の「独歩」に同情的に作用し、渦中で関わった「黒光」でさえ、当時は、「信子」の浅はかさ、気まぐれさに辟易し、純粋で一途な「独歩」のほうに味方する気持ちが強かったと語っている。
そのときは、まだ、「信子」が「独歩」から脅されていたことを「黒光」は、知らなかったのである。
このお話には、まだ、続きが、ある。
「信子」は、家出したあと、体調が悪く、京橋にあった「浦島病院」の院長に、自分を匿ってもらったのだけれど、実は、彼女は、「妊娠」していたのだ。
翌年正月、「信子」は、秘密裡に「女の子」を生む。その子のことは、「独歩」に告げられることはなく、「信子」の「妹」として、父親の戸籍に入れられ、やがて、里子に出されたのだった。
一連のスキャンダルで、婦人解放運動家として活躍していた「信子」の母親は、責任をとる形で、全ての要職から引退した。
さらに、不幸は続く。
世間の誹謗中傷にさらされた両親は、それから四、五年のうちに、相次いで亡くなってしまうのだ。
「信子」のその後の「人生」だって、かなり、波乱万丈だ。
両親を相次いで亡くした「信子」は、親戚たちの協議によって、「アメリカ」に居る知人の息子に無理やり嫁がされることになり、「アメリカ行の船」に乗せられてしまう。。
そんな「結婚」はしたくなかった「信子」は、「船旅」の途中で「船の事務長」と恋愛をし、「アメリカ」には下船せずに、そのまま日本に舞い戻って、事務長と同棲するという道を選ぶ。
事務長は、妻子持ちだった。
けれども、「事務長」は、責任をとって、妻とは離縁し、「信子」と正式に結婚する。そうして、「船」の職も辞するのだ。
またしても、「信子」は、男性の「運命」を、翻弄してしまう。。
さらに、そのおはなしは、「同船」していた鳩山博士の夫人によって、スキャンダラスに「報知新聞」に、密告されてしまうのだ。
「信子」の美貌に、「同船」していた全ての男性が惹きつけられ、夫さえも、相好を崩して話しかけることに嫉妬して、腹を立てた結果だったと言われている。
新聞社は、「信子」のことを調べ尽くし、「信子」が、実は、「独歩」の子どもを生んでいた事実まで、報道してしまう。。
新聞で、そのことを知った「独歩」は、新聞を掴んだまま「黒光」のもとを訪れて、
「あれは事実か、たしかに信さんは私の子供を産んだのか」
と、詰め寄ったそうである。
「黒光」は、事実だと告げ、隠していたことを、平謝りに謝ったそうだ。
そのときの「独歩」は、すでに、再婚していた。事情を理解した「独歩」は、張り合いがないほどおとなしく聞いて、
「いや、私も悪かったのだから」
と言って、帰ってくれたと「黒光」は、「默移」のなかで、述べている。
「信子」には、そのうえ、さらなるスキャンダルが襲う。
この一連の顛末が、「有島武郎」によって、「或る女」として小説化されてしまうのだ。なぜなら、「アメリカ」で「信子」を待っていたのは、「有島武郎」の「親友」だったからである。
「或る女」は、当時ベストセラーとなって、一世を風靡した。
人より秀でた知性と話術と美貌を兼ね備えていた「信子」は、そのころは、「大人の女性」として、堂々としていたらしいけれど、スキャンダルは、どこまでも、彼女を追いかけて来るのだった。
それでも、「信子」は、一切、「弁解」などはしなかった。もはや、達観していたかのようであったらしい。
晩年は、「事務長」亡き後、彼の郷里に、子どもを連れて帰り、子育てをしながら、「日曜学校」を主催して、戦後まで、地道な生活を心がけて暮らし、近隣のひとたちに慕われながら、人生を終えたそうである。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「独歩」と「信子」。。
長かった封建制が崩れて、明治時代には、「自由恋愛」なるものが、初めて我が国にも訪れた。
ひとのこころの在りかたが、そうそう簡単に変わるものではないとしても、それまで、封建制によって、儒教的に虐げられていた「エモーションの表現」は、明治期の到来により、「情熱」や「ロマン」というかたちをとって、人びとの上に降り注いだのだ。
青年たちは「恋」をした。または、「恋」に憧れた。
「独歩」も、ゲーテのように、「恋」をしたのだ。
「情熱」のおもむくままに。。
「恋愛」にも、「結婚」にも、さまざまな制約が、まだまだ残っていた明治期に、ただただ「情熱」と「ロマン」のみに殉じてしまったような「かたわな恋」をした「独歩」と「信子」は、やはり、時代の先駆者だったのだろうと、わたしは、思う。
現代の感覚から考えたら、許されないような「男性中心主義」から、抜け出ることが出来なかった「独歩」だけれど、それを、責めることは、出来ない。ひとは、生きた時代から、逃れることは出来ないのだから。。
たとえ「いびつなかたち」であっても、彼が、「信子」を「こころから愛したこと」に、間違いはないのだ。
さいごに、「独歩」が、別れたあとも、生涯「信子」を愛し続けていたことを物語る「詩」を、ここに、掲げたい。
〈嬉しき祈〉
朝な朝な夕な夕な
我にうれしき祈りあり
祈りに曰くあゝわが神!
彼女の上を守れかし!
われを見捨てし彼女の上に
肉にも霊にも安きを賜へ
あゝ此祈り!
いかにうれしき祈りぞや
人なき室にたゞ一人
涙と共に祈るなり
「独歩遺文」より
せつない。
いろいろと欠点があるところも含めて、わたしは、やっぱり、「独歩」のロマン溢れる「情熱」が好きなのだ。
たった三十六歳で亡くなってしまった「独歩」が、もう少し長生きしてくれていたら、日本文学の流れも、また、ちがったかたちに、塗り替えられただろうに。。
もしもタイムマシンがあったなら、わたしは、絶対に「独歩」に、会いに、行く。
現代から、「結核の薬」を持って行って、彼を死なせない。たった一度だけでいいから、「独歩」が、「若死に」しなかった「世界」を、見てみたい。
「結核」に冒されて「死んでしまうはず」だったわたしの「母」が、奇跡的に生き延びたことで、生まれることが出来たわたしは、「結核」で死んでしまった「独歩」の無念を、晴らしてみたいのだ。
決断は早いし、決断したら、もう、行動しているわたしだから、タイムマシンがあったら、もう、今ごろは、「明治時代」に着いているはずだ。
〈参考文献〉
※「欺かざるの記抄」講談社文芸文庫
※「現代日本文学大系11
国木田独歩田山花袋集 筑摩書房」
※「相馬愛蔵・黒光著作集刊行委員会
相馬愛蔵・黒光著作集3 默移 郷土出版社」