ジェンダー平等は「私」から始まる
高校の「文学国語」の教科書を開く。今年は何を取り上げようかしら、とぱらぱらとページをめくる。多和田葉子の『空っぽの瓶』というエッセイが目にとまる。こんな内容である。
日本語では、一人称を表現するのに、「わたし」「ぼく」などさまざまな表現がある。小さい頃、周りの女の子のように、「あたし」と自称することに違和感があった。大人になり、ドイツに渡った。ドイツ語の一人称は、イッヒしかなく、日本語のような、性による一人称の差異がない。英語でI amに当たる、イッヒ・ビンは、音が同じ日本語の「瓶」を思い起こさせる。Ich binと記すと、自分が、男性/女性のどちらにも属さない、空っぽの瓶のように感じる。
『空っぽの瓶』は、日本語に内在するジェンダーの問題を平易な表現で語っている。
私は学生時代、パンツスタイルが多いと、男の子みたいだと言われたり、化粧しないでいると、なぜしないのか、と聞かれたりした。周囲が求めている「女らしさ」を息苦しく感じ、文化的・社会的に構築された性差であるジェンダーに興味をもった。
上野千鶴子の『資本制と家事労働』からは、資本制下で女性が無償で家事労働を担い、男性に搾取されていることを学んだ。岡真理の『彼女の正しい名前とは何か』では、一人のパレスチナ女性との出会いを通して、第三世界のジェンダーの問題を考えようとする姿勢に打たれた。また、最新のジェンダー理論といわれた、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』も読んだ。異性愛者/同性愛者という主体を立ち上げず、一回一回の性行為のみがある、という主張に目から鱗が落ちた。
周囲の眼差しは急に変わらなくとも、私の感じた違和感を、様々な視点から言語化してくれている先人の存在に励まされた。
就職し、高校の教壇に立つようになってから20年、学生時代の学びを日々の授業に生かすことができないでいた。ジェンダーの学びからも遠ざかり、そんな自分を寂しく思っていた。
けれど今や、言葉からジェンダーの問題を考えるような文章が、教科書に掲載されるようになった。二学期の授業で『空っぽの瓶』を扱うことを通して、社会が作り出した男らしさ/女らしさに囚われていないか、囚われているなら、抜け出すためにはどうしたらよいのか、を生徒と一緒に考えていきたい。未来を担う生徒たちの意識が変わることで、ジェンダー平等への一歩となれば、そう願っている。