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東京・天使の詩―ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』


Ⅰ ベルリンから東京へ

  『ベルリン・天使の詩』(1987)から35年、役所広司が天使になって東京の街に舞い降りた。といっても、彼には初めから翼はない。『ベルリン』の天使ダミエル(ブルーノ・ガンツ)は当初、ランドマークの戦勝記念塔からベルリンの街を見下ろしていた。役所広司演じる「平山」―ヴェンダースが敬愛する小津安二郎『東京物語』(1953)の平山周吉(笠智衆)と同じ苗字だ―は、一貫してランドマークのスカイツリーを見上げるのだ。
 本稿は、『ベルリン・天使の詩』を補助線として、ヒーローの公私における言動を分析し、ヒーローがどのような存在として描かれているかを明らかにする試みである。


『ベルリン・天使の詩』のダミエル

Ⅱ ベルリンの天使の仕事

  『ベルリン』で、天使たちの仕事は、心身の危機にある人々に寄り添い、その声に耳を傾けることだ。天使たちの働きで、最初落ち込んでいた人が元気を取り戻すこともあれば、自殺したいという衝動を止めきれずに、ビルから転落してしまう人もいる。いうまでもなく、天使たちはキリスト教の神の使いである。キリスト教は、十字架上でイエスが死ぬことで、全人類の罪を帳消しにし、救いをもたらしたと考える。イエスが人類に示した、一方的で絶対的な無償の愛がアガペーである。天使たちは、このアガペーの実践を義務づけられているのだ。

Ⅲ 東京の天使

   

1 その仕事


  では、東京の天使「平山」の仕事は何か。パブリックスペースのトイレの清掃である。彼は小さな鏡を用いて、隈なく便器を磨き上げる。日々のトイレ清掃で、不特定多数の人々の体から出る汚れを人々に代わって洗い清めるのだ。イエスが、不特定多数の人々の心から出る汚れ=罪を、人々の代わりに十字架にかかって死ぬことで清めたように。平山の前には、彼にしか見えないホームレス(田中泯)が時折現れるが、彼は『ベルリン』における相方の天使カシエル(オットー・ザンダー)の似姿であろう。
 

2 公的領域における無償の愛

  彼の仕事ぶりをもう少し見てみよう。「清掃中」という表示を無視してトイレに入って来る人がいても、それをとがめることはない。そっと息を潜めてその人が出てゆくのを待ち、また初めから清掃を始めるのだ。同僚のタカシ(柄本時生)が大幅に遅刻してきても、彼を叱責することも、自分が余計に仕事をしなければならないことに文句をいうこともない。小さな男の子がトイレで母親とはぐれて泣いていると、手をつないで一緒に母親を探してやる。だが、母親は息子を見つけると、平山に礼ひとついわず、息子の手が汚れたからと、消毒シートで拭く。平山の清掃そのものはもちろん無償ではないが、彼はその端々で周囲の人々に無償の愛を示して見せるのだ。

3 私的領域における無償の愛

 仕事を終えた後、同僚のタカシはこうぼやく。ガールズ・バーで働くアヤ(アオイヤマダ)に恋しており、今夜が勝負だが、給料日前で金がなく、店に行けない、と。タカシは平山の車から勝手にカセットテープを持ち出し、それを下北沢の店で売ろうとする。平山は、大切にしているカセットテープを売るのを拒否する代わりに、財布に入っていたお札を全てタカシに渡す。手持ちの金がなくなった平山は仕方なく、自宅にストックしてあった古いインスタントラーメンをすすり、夕食とする。観客の予想に違わず、タカシはその金を返すことはない。タカシに半ば強制される形ではあるが、平山は金のないタカシに代わって金を出し、自らは貧しい夕食に甘んじている。経済的な自己犠牲を払い、タカシに対する無償の愛を実践しているのだ。イエスが全人類に代わって自らの命を犠牲にし、人類に対する無償の愛を実践したように。
 アヤはタカシと一緒に平山のバンに乗ったときに聞いた、パティ・スミスのカセットテープを気に入り、こっそりそれをくすねる。アヤは、後になって、平山にそれを返しに来るが、そのときも平山はアヤをとがめることはない。平山は無言でアヤを許すのだ。そんな平山の愛に感じ入ったアヤは、突然、平山の頬にキスして姿を消す。アヤは、小津の『晩春』(1949)に出てくる、紀子(原節子)の同級生「北川アヤ」(月岡夢路)に由来していたことに気づかされる。北川アヤは、曾宮周吉(笠智衆)が娘の紀子を結婚させるために一芝居打ったことに感心して、いきなり周吉の額にキスするのだ。

『晩春』の曾宮周吉と北川アヤ


 平山の元に、姪のニコ(中野有紗)が家出してやってくる。平山は、自分の居室と布団をニコに譲り、自分は階段下の物置きで寝る。ニコが清掃の仕事に同行したいというと連れて行き、行きつけの銭湯にも一緒に行く。久しぶりに会った姪にも、無償の愛を注ぐのだ。数日の間ではあるが、母親である妹(麻生祐未)に代わって、姪の親代わりを務めるという自己犠牲を払っているのだ。
 神社で、ニコと二人で同じタイミングで飲みものを飲む仕草は、父と息子が同じタイミングで釣り竿を同じ方向に動かす、小津安二郎の『父ありき』(1942)へのオマージュとなっている。父と息子ならぬ、伯父と姪の心が共振していることを示している。本作のタイトルは、ルー・リードの曲『Perfect Day』(1972)から来ており、平山は車中でこの曲をかけるが、ルー・リードがヴェルヴェット・アンダーグラウンドに属していた際にリードボーカルを務めたのがニコだった。叔父と姪、二人の心が共振するのは、姪の名前からも明らかなのだ。

『父ありき』の釣り
『Perfect Day 』収録の『TRANSFORMER』の
ルー・リード

4 人間ならざるものへの無償の愛

 平山が無償の愛を注ぐのは、人間だけではない。神社の木の根元に生える若芽を神主の許可をもらって持ち帰り、毎日欠かさず水やりをして育てる。平山の家には、小さな鉢植えがたくさんあるが、おそらくそのいずれもが、気に入った木の子どもたちなのだろう。

5 エロース

 このように見てくると、アガペーを実践する平山はイエスの似姿のようだが、彼は女性に対し、自分にとって価値があるから愛する愛―エロース―を抱いてもいる。行きつけのスナックのママ(石川さゆり)に秘かに思いを寄せ、彼女が店で見知らぬ男性と抱き合っているのにショックを受け、ビール3本と普段吸わないタバコを買い、うさを晴らそうとする。『ベルリン』の天使ダミエルは、サーカスで空中ブランコをする若い女性マリオンに恋し、エロースを実践するために人間になる。平山もまた、アガペーを実践する一方で、女性にエロースの感情を抱いてもいるのだ。
 スナックのママと抱き合っていた男性(三浦友和)は、自ら平山を追いかけて来て、自分がママの元夫であり、癌で余命がいくばくもないことを明かす。男性と平山はビールで乾杯し、影踏み遊びをする。平山は、当初、恋敵と認識した男性と友人になる。男性の歩み寄りによって、平山は期せずして、イエスのごとき、敵を愛する愛をも実践してしまうのだ。


6 神道への敬意

 これまで平山を、『ベルリン』と重ね、キリスト教の文脈で分析してきたが、平山の人物造形はそれにはおさまりきらない側面を持つ。平山は毎日、昼休みになると頭を下げて神社に入り、お気に入りの木が木漏れ日に揺れるのを見ながら、昼食を食べる。平山は、目に見えない神的なものを敬うメンタリティの持ち主とされている。「野球と宗教は人それぞれだから」という、平山行きつけの飲み屋のマスター(甲本雅裕)の言葉が特徴的に示しているように、ヴェンダースは、東京を舞台にした本作において、キリスト教だけを特権化するのではなく、日本特有の宗教である神道にも敬意を払って見せるのだ。

Ⅳ 『Perfect Day』と重ねて

 タイトルは、先ほども述べた通り、ルー・リードの曲『Perfect Day』から来ている。この曲は自分自身を扱いかねている「私」がヘロインのおかげで完璧な一日が過ごせたことを、ヘロインを擬人化する形で歌っており、ヘロイン中毒者を描いた映画『トレインスポッティング』(1996)の挿入歌としても用いられている。歌詞のラストで4回繰り返される「You’re going to reap just what you sow」(自分の蒔いた種を刈り入れることになる)は、新約聖書の使徒パウロの『ガラテヤの信徒への手紙』6章7節に由来しており、ヘロイン中毒の「私」の滅びを予告しているといえる。一方、公私ともに無償の愛を実践する平山は、どうか。歌詞と重ね合わせて考えるなら、おそらくイエス同様、永遠の命を得ることになるのであろう。

 

Ⅴ ヴァリエーションとしてのイエス


 本作は、イエスのごとき存在を若干の差異をもって描いている。平山は、東京に生きる和製のイエスといってもよい。映画がキリスト教文化圏で始まり、ヒーロー/ヒロインの原型となるのが、イエス・キリストであることを踏まえるなら、特に目新しい試みではない。役所広司は、本作の演技で、カンヌ国際映画祭で男優賞を受賞したが、ヴァリエーションとしてのイエスを巧みに演じたことが評価されたといえるだろう。加えて、エキュメニカル審査員賞というキリスト教関連の団体からの賞を受賞したが、本作がイエス的存在を描いていることを踏まえると、何ら不思議はない。
 本作は繰り返し、小津作品へのオマージュを捧げるが、ヒーローたちはいづれも、わが子に無償の愛を注いでいたことを思い出そう。『晩春』と『父ありき』の父は、亡き妻に代わって、男手ひとつでわが子を育てている。『晩春』では娘を結婚させるために父は一芝居打つ。『父ありき』では、息子の学費のために、父は息子と離れ離れになって働く。『東京物語』の父は、子どもたちを愛情をもって育て、学費も惜しむことはなかったのに、東京の子どもたちを訪ねると、冷たくされ、それでも文句ひとついわない。作中でキリスト教に直接言及されることはないものの、小津作品のヒーローたちは、私的領域におけるイエスとでもいうべき存在なのだ。

感謝のことば


 この文章を書くに当たり、noteの記事をいくつも参考にさせていただきました。
 「おみず」さんの「【全曲和訳】『PERFECT DAYS』劇中曲」からは、映画に引用されている曲について学ばせていただきました。音楽に疎い私にとって、よい事前学習になりました。
 「毎日が月曜日」さんの「東京で『見上げる』こと。『まっすぐ見る』こと。『PERFECT DAYS』」と、「Suzukichi Suzuki」さんの「映画『PERFECT DAYS』が描く美しい日本人」は、映画を観た後に読ませていただきました。自分以外にも、本作を『ベルリン・天使の詩』と重ねてご覧になった方がいると知りました。「毎日が月曜日」さんは、視線の問題について、より掘り下げて考察されていました。「Suzukichi Suzuki」さんは、両者を図解して比較しておられるところが、たいへんわかりやすかったですし、神道と結びつけて考察されているところは、なるほどと思いました。
 どうもありがとうございました。

 








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