思考を言葉にするということ
Ⅰ 映画『ホールドオーバーズ』を観て、レビューを書く
10日、映画館で『ホールドオーバーズ』という、新作のアメリカ映画を観た。その日から、映画を観て感じたことを書き始めたが、書いても書いても、映画を観て思ったことを言い尽くせた気がしない。
学生のころ、指導教官から、数珠つなぎに連想が連想を呼んでいくような書き方だといわれていた。そのクセが直らないから、どんどん長くなるのかもしれない。
毎日2000字ぐらいずつ書いて、12日から13日に日付が変わるころ、ようやくひと段落ついた。最終的には、原稿用紙にしたら20枚前後と、あまりに長くなってしまったので、2回にわけて投稿することにした。
13日の朝から、もう一度、つじつまがあっていないところはないか、文章の流れをチェックした。さらに、読者の方に少しでもイメージが伝わるように、写真や動画を借りてきて、記事に貼り付けたり、埋め込んだりした。
気づくと、5時間が経過し、昼になっていた。
Ⅱ 映画『フランケンシュタイン』を観て、ビクトル・エリセと比較して書く
同じ日、映画について書いたせいで、何となく映画脳になり、夜になって映画を観ようと決意。70分で終わる、1931年の『フランケンシュタイン』を観る。大好きなビクトル・エリセの『ミツバチのささやき』(1973)で引用され、重要な役割を果たすのに、恥ずかしながら観たことがなかった。
翌14日、せっかくだから、『フランケンシュタイン』を『ミツバチのささやき』と重ねて読み、文章にしよう、と決意。二作品の比較だけのはずが、書き始めると、エリセ愛が炸裂し、エリセの作品世界全体に言及したくなる。書けども書けども、なかなか終わらず。そんなこんなで5000字を突破。夕方から書き始めたけれど、日付が変わろうとしていた。
ざっくりとは書き終えたけれど、まだ画像なんかを貼りつける作業が残っている。三連休、書くだけで終わってしまいそうだなあ。片付けもしなくちゃいけないのに。そう思って、寝た。
Ⅲ エリセの『ミツバチのささやき』について書く
話は今年の2月のことに遡る。エリセの新作『瞳をとじて』を観た。カール・ドライヤーの映画『奇跡』(1955)に言及し、「ドライヤー以降、映画に奇跡はない。」という台詞が登場する。
『奇跡』は、お産で亡くなった女性が、義弟の神への呼びかけによって、復活するという話である。これまでの彼の作品群は、すべて映画『奇跡』の影響下に作られてきたのではないか、と思い至った。その気づきをもとに、エリセの短編『ライフライン』やドキュメンタリー『割れたガラス』について、noteに書いて来た。
けれど、『ミツバチのささやき』と『エル・スール』については、まだ投稿していない。ドキュメンタリー『マルメロの陽光』については、3月に書いたのに、未だ投稿せず。『ミツバチのささやき』は、途中まで書いて、やはり下書きに置いたままだ。
翌15日になって、まずは『マルメロ』を投稿して、『ミツバチ』と『エル・スール』の2本の作品論をきちんと書きたい、と気持ちが変わる。
その上で、『フランケンシュタイン』と、最新作『瞳をとじて』で言及されている、ドライヤーの『奇跡』、この2本を補助線として、エリセの世界全体を論じたい、と。 読む方としても、作品論、つまり各論の後に、総論があった方がわかりやすいだろうし。
ということで、『ミツバチのささやき』の分析に取りかかったけれど、15日だけではとうてい終わらず。かくして、私の三連休は、ほとんど家から出ず、パソコンとにらめっこして、終了した。
Ⅳ 思考を言葉にするということ
noteは映画レビュー専門のサイト、という訳ではないし、私は、たくさんのフォロワーさんがいる人気の書き手、という訳でもない。だから、映画レビューに時間を費やしても、よほど話題になっている作品について書かない限り、いったい何人の方に読んでもらえるのかも、そもそも需要があるのかも、定かではない。
けれど、書かなければ、文学でも映画でも、ほんとうにわかったことにはならない。そんな気がして、書き出すと夢中になって自分の気が済むまで書いてしまう。
文学より映画の方が気楽に書けるのは、専攻した分野ではないし、外国語で書かれた批評や研究書に当たっていないからといって、責められることもあるまい、と思うからだろう。
心揺さぶられるものに出会うと、思い浮かんだことを余さず書いていこうとする。けれど、書くことは時間がかかる。思いついたことを、書く、という行為で追いかけて、でも、なかなか追いつかない。
みなさんは「書く」という行為に対して、どんなふうに感じておられますか?
〈追記〉
映画レビューを書いたとて、誰も読んでくれないかもしれない、などと拗ね者のごとく記した。けれど、15日にエリセについてつぶやいただけで、コメントを下さったnoterさんもいた。エリセについての私の文章を読んでくださる方が、少なくともひとりはいるだろう、と思うと、勇気が出た。
コメントをくださったjullias suzzyさんに、この場を借りて、お礼を申し上げます。