EZO DEER

退廃芸術とエゾシカにハマった我流の仏教徒

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最近の記事

通信制高校こそ学校のデフォルトになるべし!

以前 通信制高校の説明会に行った感想をまとめてみました。  多彩な特色 きめ細かなサポート 無理の無い学びのスタイル そして何より「なぜ学ぶのか?」への答えがある。多数派のための学校は生徒をワクにはめる。それが全て悪だとは言わないが、納得できる内容かどうかの違いはは大きい。到底納得のいかない理不尽が多いと思う。  不登校になる人は理不尽への耐性が低い。それはむしろ「資質」と言い換えていいかもしれない。理不尽を感知して身を守っているのかもしれない。多数派は耐性があるばかりに理

    • 未来世紀ブラジル

       この映画は間違い無く自分の人生を変えました。この映画が無ければ今の自分は無いと断言できます。以後、映画とは(ほぼ)無関係の話ですが語ります。  出会いは新聞広告でした。ポスターのインパクトに「これは観なければ!」と直感しました。さっそく試写会を申し込みました。思った通り、いやそれ以上に面白い映画でした。 あまりに気に入ったので劇場に行きました。当時は劇場に好きなだけいることができたので、同時上映を挟んで2回観ました。浪人中であることを最大限利用しました。さすがに疲れました

      • 卒業おめでとう…?

        卒業おめでとうございます…? そう言っていいものかどうか…  卒業した後が希望に満ちているとどうして言えるでしょう。みなさんは不安でいっぱいだと思います。いやいや、もう既に日々つらい思いをしている人もいるのではないでしょうか。おまけに世の中は不安定になる一方です。未来がどんどん霞んでいくというのに「おめでとう」なんて言って送り出していいものか…  社会が荒れつつあります。利己的に振る舞ってしまう人が増えてきた気がします。希望が持てないと真面目に頑張るのがバカバカしくなり、

        • 日々魂に刻み込め!

           仏教にも転生はあります。ユダヤ教神秘主義のカバラにもあって、そこではギルグルと呼ばれています。転生はいたるところに存在している。あらゆる時代において周知の事実だったのです。 ミヒャエル・エンデ『闇の考古学』  人生は本当に一度きりなのか? むしろ一度きりの方が救いがあるのではないか? どんな凶悪犯罪をしでかしても、人生が一度きりなら死ねば全てチャラにできる。そんな都合のいい話があるだろうか?  人は必ず死ぬ。何をやってもどんなにお金を稼いでも、やがて全ては無に帰す。一見

          ガッコーよ立ち上がれ!

           教職に就いて30年だそうだ。  体感的に感じることがある。この国を動かす人々は意図的にガッコーの権威を貶め続けている。 「ガッコーは役に立たない」 「センセーは信用ならない」 と、臣民に刷り込み続けている様に見える。  理由は容易に想像がつく。臣民は臣民として、主権者なんかになって欲しくないのだ。ガッコーだってよく見れば役に立つことはたくさんやってる。シカし、ネガティブキャンペーンが「功を奏して」なかなか浸透していないのが現実だ。  例えば社会科 キッチリ教えたらアラ不

          ガッコーよ立ち上がれ!

          人間脳を発動せよ

           世が不安定になる程、人は自己中心的な振る舞いをしがちになる。言い換えると動物に戻る。仕方ない。生命が長年培ってきた「身を守る本能」に逆らうのは難しいから。  シカし! 一方で真逆を行く人も現れるんだ。  冷静に考えれば分かる。短絡的な「自分のため」が却って危機を深刻化させることは人間脳なら判断できる。「ウワーッ!」と叫んで感情を爆発させて危機を切り抜けられるのは安いドラマの中だけだ。  でも…やっちゃうんだよなあ…  人間脳を即座に発動できる瞬発力にはまず余裕が必要だ。

          人間脳を発動せよ

          自分のために生きてさえいれば

          絶望なんて早過ぎる。 疲れている時、傷ついている時、前向きな思考も励ましも役には立たない。 一度深く闇に沈み込むことも必要な感がある。 しかし! いつまでも沈んでいると居心地良くすら感じられ沈むことが目的化し、抜け出られなくなる。 やがて「うまくやってる(様に見える)」人を憎む様になる。それを「生きる糧」とさえしてしまう。泥沼だ。 どこかで区切りをつけなければならないんだ。 自分にはできることはある。アイディアも結構ある。 なのに日々の激務で精神エネルギーは枯れ、やりたい

          自分のために生きてさえいれば

          「大人」という単語について

           「大人」という単語はどうしてネガティヴな扱いを受けるんだろう? 本来「大人」ってそういうモノなのか? 違うと思う。 大人だったら自分の中のフラストレイションを無関係なところに「正義ヅラ」してぶつけるな。フラストレイション自体が溜まっちまうこと自体を責めても仕方ない。ネタは十分過ぎだし日々とことん疲れてるんだから。でも、そいつをどう扱うか? それこそが大人かどうかの分かれ道なんだよ。 ことあるごとに湧き上がる「ムカつくココロ」には理由がある。その根本に迫れ。決して無関Kなと

          「大人」という単語について

          道具は使う人に合わせるべきだ

          松葉杖道 というのがあるのか?  道具は人に合わせるべきである。どんな年齢どんな体格どんな練度の人が使ってもある程度結果が出て、なおかつ可能な限り安全でなくてはならない。まして福祉器具ともなれば尚のことだ。ありとあらゆる人が使うのだから。  もちろん、使い手にも努力や慣れはある程度必要だろう。でも、昔からある松葉杖はあまりに使い手に努力を強い過ぎている。道具として、福祉器具として失格だ。

          道具は使う人に合わせるべきだ

          リベンジ夜更かしの恐怖

           多忙な日々に人生が飲み込まれ、帰宅後はダルくてダルくて何にもやる気が起きない。心身ともにエネルギーが枯渇しているんだ。週末という安全地帯になんとか滑り込んでも状況は改善しない。「土日はあんなことやこんなことをしよう」という野望も結局はダルさに打ち負かされ、ダラダラして一日も終盤を迎える。  ところが、だ。寝る間際になるとなぜかダルさは消え去り、頭はスッキリする。結果、ここぞとばかりに「自分を取り戻す」ことになる。完璧なリベンジ夜更かしだ。ウイークデーも週末も似た様な傾向に

          リベンジ夜更かしの恐怖

          3か月入院して考えたこと

           今回、俺は大きな学びを得たのだ。俺が今まで見ていたものは、薄皮に仕切られた狭い世界だった。だが当然、その外にはいくらでも広い世界が広がっている。様々すごい人がいる。様々つらい人がいる。様々想像を絶することが展開されている。それらのうちのほんの少しが、薄皮の綻びから感じられたのだ。足元の薄皮をちょっと踏み抜いたのが、そもそものきっかけだった。下はいくらでもある。いくらでも墜ちる可能性がある。  そうだ。こいつは前から考えていた「覆される体験」だ。真実を突きつけられ未熟を思い

          3か月入院して考えたこと

          生きる意味

           人は必ず死ぬ。空しい。なぜ生きる。まただ。こいつが頭の中でぐるぐる回る。  こんなときこそ、人間脳の出番なんだろうな。早速使ってみることにするか。  人生にはタイムリミットがある。その中で魂を鍛える。経験則は役には立つが、常に正しい訳じゃない。場にそぐわず、却って邪魔になることだってある。だから、魂に正しいものを刻み込む必要がある。鍛え、磨く必要があると思う。いついかなる時も正しくある様に。だから、タイムリミットと共に経験則を捨て去る。一生の中で磨かれた魂を核として、次の

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          アートの力は人を輝かせる!

           アンソールがひねたこじらせ系だったにも拘らず後世にまで名が残っているのは、もちろん素晴らしい作品を残したことによるのだろうが、もしアートがこの世に存在していなければ、すっかり忘れ去られていたことだろう。つまり、アートの力は人を輝かせる!という可能性を示しているとは言えないだろうか?  確かにアンソールはすごいと思う。が、ラクガキにしか見えない絵もある。「ラクガキはアートの原点だ!」が持論の自分としては、アンソールはアートの裾野を広げる象徴だと、乱暴にも主張する。さすがにこ

          アートの力は人を輝かせる!

          勧善懲悪=超悪

           勧善懲悪は毒だと断言する。しかしこいつはあまりにも世にはびこりあふれておる。エンタメとしてのアクションものはその最たるものだ。「悪いヤツ」は、ドラマなのだからいくらでも悪くできる。悪を懲らしめるんだから正しいだろ⁉︎  しかもこいつにはもう一つ、マッチョイズムがついて回る。男(おっさん)中心ストーリーだ。カッコいい中年のおっさんが活躍し、若くきれいなお姉さんと恋仲になる… おっさんの一人としてついうれしくなって見てしまうが、やっぱおかしいと一方で思うんだ。判断の基準は「誰

          勧善懲悪=超悪

          この国のキョー育に言いたいこと

          ガッコーが「果たして」来た「役割」について、やっぱり総括する必要がある。この国に蔓延している病 理由を問わず「長いものに巻かれろ」だったり、正しいかどうかよりも周囲に合わせて主張をためらうことだったり、といった気質を形成してしまった責任のかなりの部分は間違いなくガッコーにある。 今一度、見直さなくてはならない。 教育の目的は? ゴールは? そこに向かうのに何が必要か? やっていることやろうとしていることはそれにふさわしいのか? と。 ただ、価値も積極的に認めていいと思う。現

          この国のキョー育に言いたいこと

          我々は(少なくとも自分は)情報消費者だ

          批判的、攻撃的なtweetはファボされやすい一方、自制的、内省的なのはスルーが多いなあ。 ニュースを見るたび自分もついつい「このマ×ゴミがー!」という気分になりがちだが、メディアは自分みたいな情報消費者なんかよりよっぽどどころか正真正銘最前線に立ってくださっている。一方の情報消費者はどうだ。どこにも届きゃしない所で愚痴を叫ぶ以外に何をしているというのか? その疑問をtweetしても、さっぱりリアクションが無いっす。 簡単に言うと、最前線たるメディアの皆さんは増援も来ない中

          我々は(少なくとも自分は)情報消費者だ